レキトビラ「たった200名の兵士で日本の歴史を変えた戦」
岩崎城の歴史と発掘調査の見どころ
Yotube番組 歴史探訪レキトビラ「岩崎城に残された200余名の兵たちが日本の歴史を変えた」で解説された
"愛知県日進市にある岩崎城”について取り上げていきます。
詳細内容は!!
・本丸と二の丸との土塁による防御システム
・なにもない屋敷跡
・土塁の中に古墳??
・最後の将軍・慶喜が関わりがある石碑
です。
過去に取り上げた記事を読むと、さらに理解が深まります!
過去に取り上げた記事
1. 深い堀と土塁の防御システム
本丸と二の丸を仕切る堀は、かつて2m以上の深さがありました。
二の丸から敵が攻めてくることを想定し、本丸側には土塁を築かず、二の丸側にだけ土塁を配置していました。二の丸の土塁から堀までの距離は約30mで、城の防御を強化するための工夫が見られます。
2. 二の丸庭園と重臣たちの屋敷
二の丸では庭園の発掘調査が行われましたが、特に庭園の痕跡は発見されませんでした。しかし、戦国時代にはここに重臣たちの屋敷があったと考えられています。室町時代末期の屋敷は礎石の上に柱を立てる造りでしたが、岩崎城が廃城になった後、貴重な礎石は持ち去られたため、現在は痕跡がほとんど残っていません。屋根は「杮葺き(こけらぶき)」と呼ばれる技法で作られ、木の薄板を何重にも重ねる工法が用いられていました。発掘調査の結果、当時は3~4軒の屋敷があり、約100人が暮らしていたと推定されています。
3. 古墳の発見と復元
岩崎城の土塁の一部から、6世紀に造られた横穴式石室の円墳が発見されました。状態が良くなかったため、発掘後に復元されています。城が築かれる前からこの土地には歴史があり、古墳時代の遺跡が城の一部として利用されていたことがわかります。
4. 城を一望できる櫓台跡
岩崎城跡で最も高い場所(標高66.28m)にあるのが櫓台(やぐらだい)跡です。ここからは城の周囲を一望でき、当時の城の防御の様子を想像することができます。櫓台は城の入り口を見下ろす位置にあり、敵の侵入を警戒するために設置されました。発掘調査の結果、人工的に土を盛って築かれたことが判明しています。
5. 忠義を示す表忠義碑
岩崎城には「表忠義碑(ひょうちゅうぎひ)」と呼ばれる石碑があります。これは明治43年(1914年)に岩崎村の有志で建てられたもので、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜が揮毫(きごう)した「表忠義」という題字が刻まれています。
この言葉には、徳川家康への忠誠を示す意味が込められています。
石碑の裏面には、岩崎城の戦いで亡くなった人々の名前が刻まれ、歴史を伝える貴重な史跡となっています。
まとめ
岩崎城は戦国時代の防御の工夫が随所に見られる城であり、発掘調査を通じてその歴史が明らかになっています。
深い堀や土塁、重臣の屋敷跡、古墳、櫓台跡など、当時の姿を想像しながら散策すると、より歴史のロマンを感じることができるでしょう。
ぜひ岩崎城を訪れ、戦国時代の息吹を感じてみてください。
参考文献
歴史探訪レキトビラ「岩崎城に残された200余名の兵たちが日本の歴史を変えた」
岩崎城
画像引用:歴史探訪レキトビラ「岩崎城に残された200余名の兵たちが日本の歴史を変えた」
YMAP「日進の岩崎城とバンクシーガ―ドレール」