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幕末・維新の激動をカメラに写し続けた写真家大名の挑戦と遺産~慶勝の写真研究
激動の幕末・維新を生き抜いた知られざる写真家大名
激動の幕末・維新を生き抜いた知られざる写真家大名・尾張徳川家14代藩主 徳川慶勝(1824~1883/よしかつ)を取り上げます!
続きで第3弾として「慶勝の写真研究」です。
以前の記事は、以下になります。
「慶勝の写真研究」
![](https://assets.st-note.com/img/1731543111-MCjLATNKHaEY3vprzPghRUc0.jpg?width=1200)
日本における写真技術の伝来と発展
日本に写真技術が初めて伝来したのは嘉永元年(1848年)のことです。この年、長崎に銀板写真(ダゲレオタイプ)が紹介されました。さらに、安政年間(1855~1860年)には、コロジオン湿板方式(湿板写真・アンブロタイプ)が導入され、以後はこの湿板方式が写真技術の主流となりました。
写真技術の広がりと大名の関与
写真技術は、特に西欧の先進科学に関心のあった有力な大名たちによって積極的に取り入れられ、幕末から明治維新期にかけての貴重な古写真が多く残されています。これらの写真は、現代では日本の歴史を知る上で重要な史料として活用されています。
徳川慶勝はその中でも熱心に写真研究を進めた一人で、自ら撮影実験を行い、家臣や学者、医者などを動員して西洋の書物を翻訳し、必要な化学・物理学の研究を進めました。また、同じく写真技術に取り組んでいた水戸徳川家、越前松平家、島津家などと情報交換を行い、長崎や横浜から最新技術を得るなど、当時の大名間で情報ネットワークを築き上げました。
写真撮影への研究と実験
慶勝は写真技術を発展させるために、薬品の調合や撮影技術の最適化に尽力し、その実験結果を記録に残しました。実験記録には、アルコールなどの薬品調合の方法や分量、薬品の製造法、焼き付け技法に関する詳細なデータが含まれています。また、レンズの寸法を原寸大で描いた雛形や、撮影技術に関する記述も多く見られ、撮影に関する包括的な資料となっています。この活動にかかる費用は、慶勝の私財から捻出されました。
撮影対象と残る写真
![](https://assets.st-note.com/img/1731543329-eiGZ9Sc6YDzj0botsInHWOhT.png?width=1200)
慶勝が撮影した写真は、自身や弟の徳川茂徳(もちなが)、松平容保(かたもり)、松平定敬(さだあき)など親族の肖像写真、名古屋城や御殿、江戸や名古屋の武家屋敷など多岐にわたります。維新後には住居周辺や隅田川、本所周辺の風景写真も撮影し、現存するガラス原版と写真がその技術の証として残されています。
参考文献
『徳川慶勝~知られざる写真家大名の生涯』原史彦/著、徳川美術館/編、平成25年
画像引用:TOMUKO「写真機」
ウキペディア