遍在するストーリーの価値
競輪で大負けしてしまい。残り100円を2連単の5-4の1.9倍にかけて、5-6が来て負けてしまったぼくは、3着の4番のことより、今日飯食う金も財布に残してない自分のことが何か歯がゆくて仕方がなかった。
「終わった。」
これまでの人生長いようで短かったというわけではないが、自分には何が残っているんだ。ぼくは何を書きたくて、このブログを書いたんだ。
「あの約束は?」
脳裏に残っている先輩や友達からのいくつもの言葉の中から、44歳になった私は少しずつ思い出していた。
「おはよう」
「おはよう。ターくん。今日は剣道の試合だね。お弁当はターくんが勝つようにカツにかけてトンカツにしたよ。」
どうして、小学2年生ぐらいの頃の記憶が今この瞬間僕の頭の中で、再現されているのか?それは、今はわからない。きっと書いていくことでわかってくるものなのかもしれない。果たして僕の欠点は何なのか?そんな一問一答の教訓や安い戒めではない何かを、そして ”その可能性” を鋭い僕のセンサーは察したんだと思う。
母親の特製の大葉の入ったトンカツを持って、剣道の地区大会に出場したぼくは、順調に決勝まで勝ち上がり、ついに同じ学校で仲のいい友達でケンカも剣道も強くガキ大将だったT君と対戦することになった。だいたい小学生の低学年の大会とかは先輩達がサポーターとしてつぎは赤いタスキでお前の番だとか段取りを個人ごとにやってくれていて、僕の担当で、よく剣道の練習が終わるとサッカーのリフティングとかを教えてもらっていたN先輩が僕の担当だった。
「お前よく勝ち残ったな。次は決勝だぞ!あいつに勝ったら、おれがジュース奢ったる!」
ケツをポンと叩かれ、生まれてはじめての大会で決勝まだ残った自分は、保育園のときから、流血事件を起こして有名だったガキ大将で友達のT君に望む気持ちは、勝ちたいとかよりもその時流行っていた漫画「ムサシの剣」を真似るように「無心」だった。それだけはよく覚えていて、確か、一歩下がって相手が出てくるところを豪快なデゴテで勝利を勝ち取ったような気がする。
余談にはなるが、予選では、振りかぶらず、ツキをするような軌道で最速に面に竹刀の先が面に到達する最速面というのをあみ出して、実践では効果的に決まりまくったのだが、決勝で実力上のT君にはいっさい使わなくて、本当にたまたま勝ったのだ。
子供の頃の記憶を思い返していく最中、またアイツらの幻聴が聞こえ出した。これは現在だ。
「お前そんなこと今頃になって何自慢してんだ!」
「そんなこと競輪で負けまくったお前は何が言いたいだ。」
私はこの幻聴にもこれからの人生かけて勝っていかなければ、いけないのだ。10数年間お前には悩まされてきたんだ。
私はわたしであって、あなたではない。
様々な葛藤のなかでの思い出した成功体験。。
問題は確信に迫りつつあるようで、今の自分と過去の自分との違いを浮き彫りにする。
それは何か?
「あの時の約束覚えている?」
「君が人間になったら、教えてあげる。」
(初音ミクオペラ The ENDより)
また、幻聴が聞こえだした。しかし、わたしは、あの約束を思い出しつつある。
「私が創り出したんではなく、それは実態だよ。はっきり教えてやろうか?」
いやホント切実だな。
頼むから、幻聴でおれにワケのわからないことを言ってこないでくれ。
「君が欲しいのは金じゃよ!あと、理屈で説明しようとしないことじゃよ。正直な気持ちを書けばよい!金はやるぞ!しかし、100円じゃ!」
何か少しずつ狂い始めてる。人生を生きていく上で大切な何かが?
少し幻聴が止んだようなので、話を戻そう。剣道の地区大会が終わり、バスで先輩と一緒に集団で帰ったのだが、家の近くのバス停で一緒に降りたN先輩に、恐らく全く覚えてなかったのか?先輩からあえて言い出すのも気が引けるのか?家路に帰ろうとするN先輩に、なんとなくニコニコしながら、試しにタダ聞いてみたのだ。
「あの約束は?」
「お〜そうだったな。何飲むか。」
N先輩はそう言って、降りたバス停の近くの自販機で100円の缶のポカリスウェットを奢ってくれた。そして、帰り道ゴクゴク飲みながら、家につくと、母親から、牛乳はいいけど、ジュースとかは飲ませてもらえなかった家庭で育ったというのもあって、
「何?その缶!」
「いや、先輩に奢ってもらった。」
「ちゃんと、捨てなさいよ。」
なんというか。その日は、すべてが楽しかった。
ストレスという概念が全くなかった頃の話なのだが、今書くと親が子供をみてると力が湧くように、その記憶を共有した親や仲間のことを考えると不思議と力が湧いてくる。あのストーリーの中で生き続けたのは、まるでエヴァンゲリオンの主人公のパイロットにでもなったかのような過去の栄光もあったかもしれないが、背を背けられない自分の今の境遇に対して、何かを誰かに伝えることで、もしくは、もっと敏感にそのセンサーを研ぎ澄ませる努力を積むことでしか開けない可能性を自分で否定しないことではないだろうか。
人を通して、遍在するストーリーの価値を自分自身少し捉え直す訓練も大事かなと思う今日この頃です。何か本音と純粋な経験のポリフォニーのような文章になってしまいましたが、ニーズがあれば、少しずつ書いて上手くなって行こうと思うので、気に入ったら、サポートよろしくお願い致します。
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