『千歳くんはラムネ瓶のなか』とナラティブ そして、「物語性」を高めた作品達
前回も『千歳くんはラムネ瓶のなか』の福井コラボについて語っていたのだが、地元や新しい作品の盛り上げ方だけに内心は上手くいって欲しいという気持ちは強い。
だが、そういった内心を抜きにして、今まで様々な事例を見てきた身としては、これは上手くいかないと感じていた。それだけに前回、問題点を書き切ったつもりであった。
しかし、ダメと感じた直感的に関しては、前回では気づいていなかった。ただ、改めて考え直したというか、過去にこのことに関して触れていたことを思い出した。
それが「ナラティブ」だったことに。
この記事においてはイラストレーターが同じである、ライトノベルとVTuberに関して語っており、その中で「タレント性」から「物語性」にVTuberが移行していることを触れている。
ただ、この「物語性」に関しては、従来の筋書きのある「ストーリー」ではなく、皆が語り合う「ナラティブ」と位置づけている。
この受け手が作り出す物語性がライトノベルにも反映されていくのではないかと例に出したのが、『千歳くんはラムネ瓶のなか』であった。
そのときの私はこのように書いている。
ここ最近の福井市とのコラボは、作品の舞台を追体験ではなく、単に観光地、飲食店とタイアップしただけの「ストーリー」とも「ナラティブ」と無縁になっている。
そこは受け手が「ナラティブ」に変えていけば良いのだが、それが出来ている気配がない。ここは共有体験が機能していないから、私はそう感じるのだろうか?
あくまで個人での聖地巡礼にとどまってるというのが印象だ。
さて、関広見まつりに関してX投稿で、良い「ナラティブ」体験と思える内容があったので紹介させてもらいたい。
本来、ゴミに過ぎないシールですら、そこにいた証明として参加者達は持ち帰る。そして、その光景は普通の人から見たらどう思うのだろうか?
ここに、おもてなしにおけるアンジャッシュ感、勘違いコントをしている。
ゴミであるシールですら記念品に持ち帰る参加者と、ゴミの仕分けをしてくれると勘違いをするイベント開催者。
そもそも、手間がかかるだけのシールというおもてなしの気持ちで始まった勘違いが、不快のない話の結末に落としている。
このエピソードだけでも、このイベントが語り継がれる「物語性」を秘めている。そして、シールが参加者の「ナラティブ」体験としている。
だからこそ、この祭りが奇祭と称されながら、地元の人、さらには市議会議員にすら理解されイベントとして根付いたのではないか。
これはやよい軒高槻店でなぜか、3月25日に人が集まる現象でも同様な「物語性」を先駆者として演出しているのですが。
それだけに『千歳くんはラムネ瓶のなか』と福井市の関係性は、こういった「ナラティブ」からより作品と舞台の「物語性」を広めていくのだろうと、数年前の私は期待させていた。
だから、当時、例としてあげていた。
しかし、実際の福井市のコラボから、それを感じさせてくれることはなかった。それが常々、違和感として感じ、当時の期待すら思い出すこともなくなっていた。
今もふと思い出すことがなければ、違和感という焦燥感は私の心を焼き尽くしていたかも知れない。
話は変わるのだが、『追放されたチート付与魔術師は気ままなセカンドライフを謳歌する。 ~俺は武器だけじゃなく、あらゆるものに『強化ポイント』を付与できるし、俺の意思でいつでも効果を解除できるけど、残った人たち大丈夫?~』(今更だけど作品名なが)という作品があるのだが、先日無料公開された、第47話に関して作品だけでなく他漫画から見ても最高傑作と語られ、様々なワードがX上でトレンド入りしていた。
さて、この第47話に関しては、それまでのエピソードというよりも、この話単体で読み解いていかないと理解のしにくい話であった。
それだけにこの作品を読んでいる者を始め、皆がX上で読み取った感想をつぶやき、そのつぶやきから発想を経てさにに読み取りつぶやく、といったバズりが生まれていた。
それがトレンド入りの背景であるが、こうなってくるとこれは物語、ストーリーを読み取るよりも、受け手側の主観で話を読み解いていくナラティブではないだろうか。
実際、第47話だけで物語の答えは出していない。さらには単独のエピソードでなおかつ、物語としても何十年後の先の未来になっている。そのため、今後の物語でこの結末の答えを漫画家から出されることはないだろう。
(この作品、原作がありながら原作にないシーンしかないため、逆に原作者がこの答えを書いてくれる可能性はなきにしもあらず…)
それだけに第47話の結末は受け手、読者に完全に委ねられている。
それを読み取るのはストーリーでは、もはや不可能。皆が読み取ったナラティブを語り合うのが、この第47話の「物語性」となる。
また、皆から語られるナラティブは話題性を生む。実際、日本全体でトップに入る話題としてトレンドとなっていた。
話題性の拡散は種をまき、ファンという芽吹きを生む。ナラティブとは、話題性の獣なのかもしれない。
さて、『千歳くんはラムネ瓶のなか』は福井市とのコラボを通して、アニメ化に向けて、そして、物語が紡がれる中で、どう「物語性」を描いていくのだろうか?
我々はその結末を見るだけでなく、「ナラティブ」としても読み解いていく必要があるのだろうか?
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