『沙耶の唄』はセカイ系と見るべきか?
■自分は『最終兵器彼女』(著者:高橋しん)は嫌いじゃないのですが、とにかく肌に合わない。こんな風に書くと誤解されそうだけど。
この作品は純粋なセカイ系なので、そこは好きです。変にセカイ系を意識して作った作品は作り物感の部分が見えてくるから、セカイ系とは合わない気がする。
実際、セカイ系自体が創作物の作り物、そして、その上特殊な状況下で話は進む更なる作り物なのですが。
ただ、『最終兵器彼女』は初期のセカイ系においての最高傑作。
これは間違いない。あのラストは素晴らしい。
でも、冷静になってみると漫画版『デビルマン』のラストと似ており、印象としてはほぼ同じといっても差し支えもない。
むしろ、あのラストに最後に持っていくのは漫画版『デビルマン』、時期的に近い『新世紀エヴァンゲリオン』の二番煎じとして言われるかもしれないのに、創作的にもその呪縛を超えた最も恐ろしいラストだともいえる。
そう感じるモノの自分にとって、一番共感が出来なかったのは、そのラストなのだが…
しかし、共感できなかった部分は何に対して共感は出来てないのか言葉にも出来ずモヤモヤとしていた。その後、その答えを見たのが『沙耶の唄』(発売:ニトロプラス)であった。低価格でボリュームの少ない作品ではあるが、どのマルチエンディングも素直に納得。
そんなわけで自分は『沙耶の唄』を王道セカイ系にして対”セカイ系”と勝手に位置づけている。
■『最終兵器彼女』は自分にとって好きになれていないが、大きな影響を与えた作品であるのは確か。2001年に完結した作品なのにことある度、ネタにしたり思い出したり、そもそも先に述べた通り『沙耶の唄』と比較したりとするほどである。
だけど、無意識でそのあり方には反抗している作品でもある。
確かに否定的な意見ではあるが、しかし、読んで嫌悪する作品も良い作品である。真に駄目、悪い作品は見ても、読んでも何も残らない。
数多くの作品を読んで、完全に記憶に消えた作品と好きになれない作品では正真正銘比べものにはならない。
さて、『沙耶の唄』の一つのEDにおいて、『最終兵器彼女』の結末とは真逆なモノがある。基本、こちらがトゥルーエンドというか、ボリューム的にもこちらが正史とされている。
また、『最終兵器彼女』のラストとほぼ同様なEDもある。このED単体でも物語として完結している内容だが、この作品はゲーム。マルチエンディングによって、このEDの情報が他のEDにも物語、設定的にも補間や更にプラスして、より盛り上げる。
では、『沙耶の唄』の結末で何をしたのか。
いわば、日常の回帰である。ただし、それは作品内のセカイの話であって、登場人物の日常ではないのだが。
すこしネタバレとなるが、『沙耶の唄』はクトゥルー神話の要素も入っており、その結末も似た部分がある。人智を越えた存在に触れたことで日常が崩壊するといった展開である。
ただ、人智を越えた存在は側面を変えれば、ある種、真理、悟りといった真実に触れたともいえるだろう。つまり、この日常とは真実の前ではまやかしだが、それを知ったら日常は崩壊して狂人となる。
結末を抜きにして例えれば、夢のお告げで人生が変わると行った所だ。典型的なクトゥルー神話ではその結末が破滅なだけである。
『最終兵器彼女』は世界の真実を触れつつ、理解しきれずも享受した世界。
『沙耶の唄』はED次第だが、甘美的な世界の真実に触れるが、日常、常識、人間性から抗うも人間性を削り続ける世界。
といった具合、自分は感じられた。
■『最終兵器彼女』と『沙耶の唄』を比較した時、どちらがハッピーエンドか聞かれれば、自分は『沙耶の唄』を選ぶ。それはマルチエンディングというのもあるが、『沙耶の唄』のどのEDも大抵ろくな結末ではないのだが。
ただ、『最終兵器彼女』と『沙耶の唄』の最大の違い、媒体差がその結末に大きな差となっていると思う。
なぜなら、登場人物はその結末をどうであれ選んだからだ。
『沙耶の唄』の場合、登場人物の選択はプレイヤーによる“選択肢”の選択でもある。だから、よりその選択に共感が加味される。
だからこそ、選択をした結末に対して受け手であるプレイヤーも責任が生じてくる。
余談ではあるが、ゲームにおいて“選択肢”によるプレイヤーの責任というモノは意外にいろんなゲームでも語られている。どうしても性質上、メタという括りにもされるが作品には“選択肢”の責任をゲームキャラがプレイヤーに問いかけることも少なくない。
次に『最終兵器彼女』はセカイ系といわれるだけあって、物語というか状況に対して登場人物が受け身過ぎる。確かに『最終兵器彼女』も登場人物は様々な選択はしている。
だが、それは例えるなら目の前の火山が爆発する中でどのように逃げるか程度の話。状況下も状況下だけに結果としては差のない五十歩百歩の話になっている。
少し極論かもしれないが、自分にとってはそんな感じである。
ただ、話題を変えて話せば、セカイ系を肯定、否定した作品として『天気の子』である。むしろ、知名度、人気、近年という意味でもこちらを例にした方が分かりやすいだろうが。
実際、その証明はキャッチコピーだけでも分かりやすい。
「これは、僕と彼女だけが知っている、世界の秘密についての物語」
『天気の子』を見て『最終兵器彼女』を知っている人なら思うはずだ。『最終兵器彼女』のあのラストを回避する選択はあったはずだと。だが、セカイ系の世界ではそれが出来なかったはず。
なぜ、それが出来なかったのか?
『沙耶の唄』と対比してもそれは分かる。ただ、先にも例に出した通り『天気の子』の方が分かりやすいのだが…
答えは登場人物“達”がラストの回避、むしろ主人公とヒロインに対して行動をする選択を行ったからだ。
特にここは『天気の子』が00年代のエロゲー的と言われる所以である。そもそも、『沙耶の唄』は00年代のエロゲー。
『最終兵器彼女』などを初めとするセカイ系は主人公とヒロインだけの世界。物語的にも最終的に主人公とヒロインだけになってしまう。
『沙耶の唄』は主人公とヒロインの行動を止める登場人物“達”によって、セカイは日常を維持する事が出来た。別EDではそれが出来なかったから、セカイ系として昇華する。
また、別作品を例にすれば『涼宮ハルヒの憂鬱』もセカイ系と位置づけられるが、仲間がいって、その結末を変えようと主人公とヒロインに助言、手助けをしている。そして、主人公とヒロインも応じた感じてセカイを変えず、日常を維持する。
この選択をしなければ、”閉じられた世界”となっていただろう。
もっと例えるなら、セカイ系ではないにしろ『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』であろう。
■つまり、自分にとって『最終兵器彼女』が好きになれないのは主人公とヒロイン、また登場人物“達”がセカイを変える為の行動を移さなかったからだ。
これに関しては似たようなことを、とある人が既に語っていることを思い出した。
「マッチ売りの少女」が気に入らなかった。なんでかわいそうな女の子がかわいそうなコトになっちまうんだよ!!だけど本のさし絵に正拳を叩き込んでもムナしいだけだ。だから僕はそのパンチを代理のヤツにぶちかましてもらうことにした。
うしおととら、こいつらはつまり・・・そういうヤツらなんだ。
『うしおととら』1巻 コメントより
そう藤田和日郎の言葉だ。コメントから始まった作品は、この問いかけの答えとともに最終巻で完結する。
そして、『沙耶の唄』をプレイして対”セカイ系”と感じたのは文字通り、セカイ系となる結末をぶちかました登場人物“達”がいたからだ。
(これも『天気の子』で話した方が分かりやすかっただろうが…)
ただ、この考えは『最終兵器彼女』が駄目という証明ではない。『マッチ売りの少女』も今日まで残る名作。例え、結末に受け入れられなくともそこに反逆して物語を書く人がいるほどだ。
『最終兵器彼女』も自分に取って、そういったかわいそうと思うことで感情を揺さぶられ、心に残った。そして、20年以上も前の作品に対して今もこうして語られるほど。
例え20年以上先でも嫌いといえる作品であれば、それはすごいことである。読んだ次の瞬間に頭から消えるような何も残らない作品だった珍しくないからだ。
それに私が嫌いと言っているだけで、それは全ての総意でもない。別の誰かは当然好きと言う人もいる。何せ20年以上先でも覚えている作品だ、様々な意見がある良い作品なのは間違いない。
ともあれ、『最終兵器彼女』も『沙耶の唄』も良い作品なので、初期のセカイ系に触れるという意味でも良い作品であります。そして、その違いを楽しむのも、また一興と思います。
ただ、最後で申し訳ないのですが『沙耶の唄』はエロゲーです。18才以上禁止で当然、性的表現も出てきます。だからこそ、ついでに過激なグロテスクシーン、ゴア表現もあります。少し人を選ぶ作品となっています。
(ただ、エロゲーにおけるグロテスク描写は上には上がいて『沙耶の唄』はまだ入門的という深淵でもある…)
だから、色々と抵抗があったり、18才未満の方は『天気の子』を見て頂いた方が、私の言いたかったことがこの作品単体でも分かりやすく描かれていますので、おすすめです。
■ついでなので、セカイ系とは関係なく『沙耶の唄』に付いて他の点も語って起きたい。とにかく、私にとって『沙耶の唄』は好きなのです。
『沙耶の唄』はニトロプラスとして3年目の作品で、完成度の低い初期の作品から抜け出して、こなれた感が出だした作品である。また低価格という採算性をきっちりと考えてられた作品ないといけないため、ゲーム制作者には経験値のいるモノであった。
その中でも『沙耶の唄』はある種実験的でありながら、ゲームとしても物語としても破綻なく綺麗に纏まった作品。
また昔の作品だけに今語っても分かりづらいのだが、制作発表された時のエピソードも面白いのだが。
ニトロプラス・アクションシリーズでお馴染みの虚淵玄&中央東口が、今回は得意とするアクション活劇路線は敢えて外し、男女の恋愛物語、そしてアダルトゲームとしてのHCG充実など、新しい作風に挑戦した意欲作である。
ニコニコ大百科より
ともあれ、発売前から明らかに嘘の発表をしながら期待され、出来上がったモノは、更に狂気的だった。それはグロテスクな世界だったからではない。
少なくとも自分にはすべての結末を見た時、セカイ系における全否定でありながら、全肯定と感じた。それを低価格で見せられたからだ。
また、その後『魔法少女まどか☆マギカ』によって虚淵玄が関わった作品として、『沙耶の唄』が再評価され、売れるという自体にもなっている。
■『沙耶の唄』が大槻 涼樹・ 虚淵玄の連名でノベライズされた時は、正気かと思った。
大槻涼樹はエロゲー業界のシナリオライターで『黒の断章』、『Esの方程式』ではクトゥルー神話の題材としているなど、その他の作品でも業界では名の知れた人物である。
つまり虚淵玄が『Fate/Zero』を書いた様に、大槻涼樹が『沙耶の唄』の続編を書くのは、それだけで期待値はMAXである。
ただ、原作ノベライズは出たのだが予告されていた続編はいまだ出ていない。歴史的というか黒歴史となったのはなんとも…
読んで頂き、もし気に入って、サポートを頂ければ大変励みになります。 サポートして頂けると、晩ご飯に一品増えます。そして、私の血と肉となって記事に反映される。結果、新たなサポートを得る。そんな還元を目指しております。