哲学の美文
フーコーの「言葉と物」の序章を再読してみた。読みにくい。何度も立ち止まって読み返す。大昔、通読した日々を思い出した。あん時も苦労したなあ。よく読んだなぁ。今、読むと、何書いてあるか全然読めない。たぶんあの時も、わかってなかった。力技で読むだけ読んだだけだ。
読めないと言っても、作者の深い思索に追い付かず読めないのではない。そういうことも確かに、大いにあろうが、それよりももっと単純に、単に読めないのだ。プラトンとか、古代ギリシアのものは読めた。それで、意気揚々と現代思想の本を読むと、これがまた全然読めなかった。一文一文の意味が分からない。あの時、愕然としたことを思い出した。
それまで私は、書かれてある文書を理解出来ないという経験がなかった。日本語で書いてあるんだから、落ち着いて読めば、作者の深い思索まで理解できたとは言わないが、読むことは読めた。西田幾多郎も読むは読めた。吉本隆明だって読むは読めた。なのにフランスの現代思想の本は、まるで読めない。これはどうしたことだろうか。
一つには、作者独特の造語がわからない、ということはあるだろう。その昔、福沢諭吉とか西周なんかが、日本にない概念を翻訳した。哲学とか科学とか。その言葉の概念理解が出来ないで読めない、ということは確かにあるだろう。でも、それは辞書引けば、わかる。作者独自の造語については、作者が必ず本文で説明するはずだ。ラングとかパロールとかシーニュとかシニファンとか、現存在とか即自とか対自とか、エポケーとか、脱構築とか、リゾームとか。それはいい。それを理解するために読むんだから。
私が読めない、と言っているのはもっと低次元の話。単純に一文が読めないのだ。
なぜか。これは自分が馬鹿だからだろうか。まあ、馬鹿は馬鹿なんだが、私が馬鹿なこと以外にも理由がありそうである。
例えば、フーコーの本はフランスではよく売れたらしい。「言葉と物」はベストセラーの5位にはいったという。日本でも「構造と力」がよく売れた例はあるが、多くの若者は持ってるだけだった。少なくとも私の周りはそうだった。でも、フランスでは、事情が違うみたいだ。フランス人は「言葉と物」を面白く読んだのだ。
自分ごとだが、私は「構造と力」は面白く読めた。で、デリタとか買ってきて、全く読めない。ああ、いきなりポストはだめだな。ちょっと前行ってみよう。フーコー。ところが、これまた読めない。でもまあ、デリタよりはわかる。少し読める。ひとつひとつの言葉にこだわらず、少々わからなくても力技で読んで、朧げに言ってることがわかる。で、何度も読む。なんとなく、わかる。遅々として進まない。進まないのは別にいいが、ヘンテコリンな文がおおすぎる。そうだそうだ。あの時、そう感じた。悶々としていたある時、他の本で驚くべき一文を発見した。曰く「フーコーは美文家である」
ああ、と思った。納得した。フーコーは美文家なのだ。文を読ませる人なんだ。だから、修辞を工夫して、比喩とかしっかり使って、文章で酔わせる人なんじゃないかと。こう想像した。厳密な学としての哲学を泉鏡花のような文体で書く。これだ。そのあたりの専門家の蓮見重彦が、なんであんな文体なのか、それで合点いく。
だが、訳者の多くはそれほどの文学的センスはない。いや、あるかもしれないが、文学的に書くことよりも、言葉を厳密に訳すことを優先するだろう。哲学なんだから。そういえば、あの頃、蓮見重彦のなんかの翻訳を読んで、あれれ、ずいぶん読めるなあと思ったことを覚えている。蓮見重彦さんは文学センスがあった。小説書けるくらいだからね。
きっとフランス語できる人は、フーコー読んで、文章の愉楽に浸れるんだろうな。羨ましいな。
日本人で国文出身の私は、源氏物語の原文を読むと、ああ美しいなあって思う。フーコーには酔えないけど、源氏には酔える。羨ましいか、フランス人。でもそれは、源氏の深い理解が出来ることとは違うけどね。