小池水音「二度目の海」
これもまた事実とフィクションの話。
僕の祖父は映画監督で、人生最後の映画を撮ろうとしていた。それは五十五年前、初めて監督した映画の続編であり、二十年前に形にならなかった息子つまり僕の父についての映画に連なるものだった。
僕と祖父は初監督をした映画に主演した満さんの姉に話を聞きに行く。姉の光莉さんは九十歳になっていた。
満さんは幼少期から特徴的な顔つきで、十代で家を飛び出し、怪しい稼業に身をやつし、二十歳で結核にかかり、肺を片方切除する。その後舞台俳優に転身し、テレビドラマで人気を博し、祖父の映画は当たり役となる。すぐに続編、続々編が構想されたことから、映画はプログラムピクチャーの一本と考えられる。演技については、えもいわれぬ可笑しさとあるので、喜劇的要素を持った役者であったのだろう。彼は三十二歳で亡くなった。
私がすぐに思い浮かべたのは、没年こそ違うが、喜劇役者の渥美清である。日本が生んだ名優でありながら、私生活はほぼ非公開で、たとえ仕事を共にし打ち解けたと感じさせた相手であっても、自宅の場所はおろか電話番号さえ教えなかった。担ぎ屋テキヤから身を起こし、旅回りの役者からボードビリアン、テレビタレント、俳優、そして映画の世界へ。彼もまた結核を患い片方の肺がないという。
祖父と僕は満さんの実像に迫ろうと姉の光莉さんにインタビューするが、満足のいく話は得られなかった。
光莉さんは映画を見て「弟が生きたかもしれないもうひとつの人生を見るようだ」と言ったが、それだけだった。諦めきれない祖父は二度目のインタビューを伊豆の海が見えるホテルで行う。しかし、そこでも光莉さんは、そうだったかもしれません、と言うばかりだった。
実は姉は弟の様々のことを思い出していた。例えばこの海で弟は溺れかけ、それを助けた姉は弟を叱り頬を打ったこと。そうしたことなら幾らでも思い出せた。また、弟のつけた日記もあった。そこには人生を恨む言葉が並べられていた。
苦節から人間の機微を学び、演技の肥やしに変えた、ままならない過去をむしろ認めるために役者になった人。それが祖父の考える満さんだった。
多分姉の光莉さんには、それが伝わった。しかし、弟満の考えは、苦しみを苦しみとしてだけ考え、おそらく自分を憎み、世間を恨み死んでいった人だった。
祖父は自分の考える虚像を光莉さんに語らせようとするが、光莉さんは語らない。会談は、ただ過去の痛みを掘り返し、弟の苦しみを想像する時間でしかなかった。
語れなかった光莉さんは、代わりに満さんの日記を僕にたくす。記録係の僕は祖父に日記は渡せず、インタビューの記録だけ渡す。それを受け取りながら、しかし目は通さず、祖父は「思い出せないわけじゃないんだ」と言う。自分が暗に自分の意にそう思い出を光莉さんに求めていたことを、祖父は自覚していた。
映画は僕の父に連なるものとも書かれてもいる。祖父は映画を通して、息子の人生も肯定的に捉えたかったのかも知れない。憎しみとか苦しみとか不和であるとか恨みであるとか、そうしたものを昇華した人生を息子が送れたと思いたかったのかも知れない。
それは物語である。人は物語のように生きたい。近しい人の人生が物語のようにハッピーエンドであってほしい。もしくは実りあるものであってほしい。しかし、現実はやはり物語ではない。
個人的には、エンターテイメントを撮るプログラムピクチャーの監督が、何をやってるんだ、と思う。物語が陳腐なのは当たり前じゃないか、と思う。それを知っていて尚、人の実人生を物語に近づけようとする酷さを思う。満さんや息子を救いたいと構想された映画は、実のところ自分を救う映画でしかないのだ。
小説の最後で、僕は過去を繋ぎ止めながら新たな視線を未来に注ぐような映画を祖父と撮ることを夢想する。そうして朝食の準備を始める。もしそうした映画が撮りたいなら、物語を捨てて、素の日常を見つめることから始めなければならない。作者はそう語っているようにも思える。私もそうだと思う。それが映画として面白いか面白くないかは別としてだが。