ハーシュVSガダマー
言語学者のソシュールは、その研究対象からパロール(個人的な発話)をはずし、ラング(共通の言説)に絞った。俗語とかスラングとか特定の集団にだけ通じる隠語とかを相手にしてたらキリがないから。また、言語の歴史的推移も、その研究対象から外した。語源とか言い出したら、これもキリがないから。それは他の人にまかす。ソシュールが考える対象は「今ここの言葉」だけだ。「純粋言語」だけが研究対象だ。
これに呼応するのがフッサールの現象学で、彼もいらんことはカッコに入れて(エポケー)、「今ここの認識」を対象とする。そんな純粋言語や純粋認識に呼応するのがハーシュの「意味」である。「意味」とは、作品を作るうえでの作者の「純粋意図」とするところのものだ。ハーシュの言う「文化的リテラシー」は「今ここ」のリテラシーなのだ。
が、ハーシュを批判するガダマーはこう言う。「そんなもん、あるのか」と。純粋言語とか純粋認識とか作者の純粋な意図とか、あるのか、と。作者が作品を書く時、すでに作者はその時代の社会常識とか流行とか文化的価値観とかに毒されてる。影響されている。それを後代の人間が、違う価値観を持つ人間が、作者の意図なんか汲めるわけがない、と。言い方は悪いが、読者は読みたいように読むんだ、と。これが作者の意図だと。
じゃ、解釈はなんでもありなのか、と問えば、それは違うと。読者は作品を自由に読んでいいが(読むしかないが)、その「価値観の方向性」を決めるものがある。それは「伝統」だと、ガダマーは言う。
「今ここのリテラシー」ではなく「伝統に則ったリテラシー」。伝統に沿った蓋然性。むう、どこかで聞いたことがある。エリオットだ。新批評だ。にゅーくりてぃしずむのお題目だ。作者抜きで作品を読め、とした運動。そこの価値基準が「伝統」だった。
でも、新批評は行き詰まったんじゃなかったっけ。結局、批評家の読みたい読みの型に作品を落とし込み、似たり寄ったりの痩せた批評しか生み出せなかったんじゃなかったっけ。だから、解釈学みたいな新しい読みが生まれたんじゃなかったのか。
なるほどハーシュ(解釈学)の言うことはお花畑かもしらん、だけどガダマー(新解釈学派)の言うことも、結局、アナーキーになるか型ハメになるしかないような気がする。
「今ここ」の解釈か。「伝統」に基づく「普遍」の解釈か。似ているようで、限りなく遠い二人。
そうこうしてるうち、バルトが「作者の死」宣言をした。ニーチェは「神は死んだ」と言った。バルトは「作者は死んだ」と言った。絶対意識してたと思う。バルト、やるね。
ジャーナリズム的に。
あぁ、その前になんかあったっけ。あっ、「受容理論! 」全く、ヨーロッパ人、恐るべし。理論の底なし泥沼に、自ら進んで入っていく。死にたいのか!
果たして、浮上するのでしょうか、否か。次回、こうご期待!