別れたる妻に送る手紙 近松秋江
なんという情けない男であろうか。若い男と逃げた妻を追い回すという話である。筋としてはこれだけである。私小説である。
これだから私小説は……。丸谷才一先生の嘆きが聞こえてきそうである。
しかし、私は最初読んだ時、夢中になった。私小説でも、いいものはいいのである。小説が人間を描くものなら、ここまで書ければ上等と思う。「死の棘」も同様である。
一人の実在する人間を描くのに、私小説の他にノンフィクションという手もある。例えば、増田 俊也の「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」はとても優れたノンフィクションだ。そこで増田は木村政彦という人間を分析している。海老沢泰久も沢木耕太郎も佐野眞一も基本書き方は一緒だ。第三者である作者がある人物を取材して書く。読みどころは、だから分析なのだ。
しかし、私小説は分析しない。自分のことなので冷静な分析ができない。そこにあるのは思い込みである。ひたすら自分の思い込みだけで突っ走る。愚かである。全く救いようのない愚かさだ。そこで思う。人間は本来愚かなのではないか、と。近松秋江って愚かなやつだなあ。と思いながら、その愚かさを愛してしまう。だって、自分も愚かだから。
立川談志は「落語は人間の業だ」と言った。金が欲しけりゃ、死人にだってカンカン踊りをさせる。それが落語に出てくる人間なのだ。
私小説も悲惨だが、落語のように笑ってしまうような時がある。「死の棘」で逃げ場のない、どうしようもない夫婦の諍いを、幼い女の子が「カテイノジジョウ」と言うシーンがある。限りなくシリアスなのに、その場面を読んで私は笑ってしまった。本書を読みながら、やはり私はしばしば笑った。馬鹿だなあ。でも、なんかわかるなあ、て。
ド直球のストレートで「人間の業」を見せてくれる。私小説の良さはそこにある。秋江、ラブ。
別れた妻に送る手紙―他二篇 (岩波文庫 緑 29-2) https://amzn.asia/d/41zasQa