「総合的な探究の時間」に端を発した雑記

課題設定とカリキュラム

探究課題の設定の段階で、学習者の問題意識が教師が想定していたものより「浅かった」とき。どう考えますか?

私は、「待つこと」が大事だと考えます。そして、「学習者が求めてきたときに外につないだり、一緒に活動する方法を考えたりすること」が、「伴走する」ということなのかなぁと思っています。
学習者が求める前から「教え、導かなくてはいけない」「例を示す」ということにはどうしても少し馴染めない自分がいます。

試行錯誤の過程こそ探究の醍醐味で学びの機会であると思います。探究を進めていく過程で、一次問題意識からの変化が起きて、テーマが変わってこその探究だと思います。仮説の段階から結論を見通せるなんてありえないと思います。
本物とつながること、一次情報や実験、実地調査に向かってほしいとも思います。
それらは「いけ!」と言われていくのではなく、「ちょっとやってみたいなと思うからやる」であったらいいなと思います。
そのためには、待つ。やりたくなるまで待つ。やりたいことが見つからなくても今はそれでいい。誰かの協力するのでもいい。それらのために十分な活動のための時間を取る。活動の幅を制限をしない。このあたりが起点になってカリキュラムが構成されるといいんじゃないかなぁと思います。

忙しすぎて探究できない問題と受験

極端な言い方をすると、探究は暇だからできると思っています。(わかりやすい反面誤解も生むかもしれない表現であることを自覚します)
やることが決められているときに自分で課題を設定して、探究したいなんて思えないと思います。(私みたいのはちょっとおかしい自覚ありです。)
学校の先生で、授業、テスト、事務作業に追われていて、その他の探究したいなんて思えるでしょうか?生徒には学校以外の自分の時間を使ってさせるというのが今の総合的な探究の時間です。

しかも、授業時間でも、生徒には、教師の探究の成果報告のみで、探究自体はできなくなっている場合が多いのではないでしょうか。
ただ、これは先生が……というよりも制度に問題があると思っています。いくら変えようとしても受験の本質は、評価者に対する忖度です。出題される評価者の問に対して用意された正解を当てられる人を求める仕組みです。個人の資質など、実は求めていないのです。教科に切り分けられている以上、総合的になど学べません。一対一の問に対する答えを合わせる訓練が必要です。総合的に…、思考判断を…とやればやるほど、混沌としてくると思います。
そのあたりが厳然としてあって、マイナーチェンジはしても抜本的改革は起こらないようなので、先述のように学習者が探究する暇がない状態が大勢を占めるのも致し方ないと思います。

いっそ受験時には、基礎的知識のみを問えばいいのではないかと思います。思考などで差をつけるのは2次試験にお任せして、知識技能だけ、高等学校までに身に着けてきてほしいものが身に着いているかを問う。
さらに言うなら、問題も公開していいのではないかと思います。運転免許の試験のように。そして、さらにさらに言うなら、CBTでいつでも受験できるようにしていいのではないでしょうか。何も見ないでその瞬間だけできることを重視するのではなく、その知識に触れ、学ぼうとしてクリアできていればいいと概念の変化が必要になります。
もし、その知識技能が十分でなければ、そこで困るのは本人の責任、ただそれだけのように思います。(卒業できない、仕事を続けられなくなる)もちろん、周りにもいくらか迷惑をかけることになるでしょうが。

人生のある時期にたくさん暗記していることで、人間の価値を切り分けるような仕組みに疑問を持って久しくあります。科挙以来?、紙しかない、紙しか使えないときはこの方法しかなかったのでしょうが、ICT、そして世界にもまれな一人一台端末の環境。日本だからこそできること、世界の最先端を行けることなんじゃないかなぁ。
試験日の設定や、カンニングとかも気にしなくてよくなります。

ずいぶん脱線しました。

学校間連携とアンケート

いろいろお話を聞くと、一番連携を取りにくいのは地域の学校だったりするようです。

これってどうなのかなぁと問題意識を持ちます。
学校訪問、アンケート協力。母校にお願いしに行こうとすると、高校から文書が来ていない、事前に学校間で連絡をとっておく「べき」なんていうことのようですが、それって本当に必要なのでしょうか?義務教育が終わり、成人ではありませんが、社会人として活動していてもおかしくない人たちの要請に対してと考えると、ちょっと気になります。
以前、尊敬する校長先生に「学校って生徒を指導する場所というだけではなく、地域の学びのセンターとして存在しなければいけない」という構想を伺ったことがあります。私はそれっていいなと思っています。

ただし、忙しすぎる職場の状況、たしかにたくさん来られても困ります。生徒にアンケートをしてもらうというときも、学校がやってねというと強制力が働く場合もあります。
そういう調整の仕組みは必要であろうなと思いました。
今後、探究的に学び、活動する人が社会に増えたとき、今の余力がない学校の仕組みでは生涯学習のセンターとしての学校にはなりえないでしょう。

ある研究会で「人がいるうちに人がいなくても回る仕組みをつくろう」という言葉を伺いました。ICT関連のお話でしたが、いろんな物事に関連して、ぴったりくる言葉でした。今、見直し時かなと思います。

あと、次いでみたいに書きますが、アンケート。
どうやってとると効果的かってどこで学べるのでしょうか?質問の仕方。これって結構大事なのに、教育課程の中にないような気がします。総合的な探究の時間に漠然とやるのではダメなくらい、深くて広い研究やノウハウがある分野であるように思います。

そして、生徒の質問が深まったり広がったりしにくい場合がある問題。
これはもしかしたら、授業での発問にも責任があるかもしれないと思いました。
「どう思う?」が探究した後に出た問であったのでしょうか?
オープンクエスチョンばかりになっていなかったでしょうか。
クローズクエスチョンで回答を誘導してはいなかったでしょうか。

私は……過去を振り返り、かなり反省しています……。

やりたいことはやらなきゃわからない

進路決定、選択科目決定に際して。
「何がやりたいのか」
これ、実はとても難しいことだと思います。
「やりたいことなんてやらなきゃわからない」という当たり前のことに最近ようやく気づきました。
やってもいないのに、やりたいことを決めなきゃいけない。これって結構無理のある構造なのかもしれません。
ICT教育然り、生成AI活用授業然り。10年後の自分を見越して今やりたいこと然り。

じゃあどうすればいいかについて、まだこれだ!というものは見いだせていませんが、ICT、生成AI、メタバース、総合的な探究の時間の拡充、インターンシップ、実の場とつながる学びあたりに何かヒントがありそうだなぁと思っています。

これだってそうですよね。やってみないから、わからない。試行錯誤しながらやってみたいですね。


それにしても、私自身、失敗したら、終わりだよ!という社会で育ってきたように思いますが、こうなってくると、失敗という概念もなくなっていいのかなと思います。敗けて失う。何を失うというのでしょう。モノや事によっては失うこともあるのかもしれませんが、そのくらい重い言葉なのかもしれないですね。失敗。
むしろ挑戦しないことのデメリットの方が取りざたされる社会。
挑戦が奨励される社会。すごい時代になったものです。
でも、あれか。戻ったのかな?明治維新とか、戦国時代とかそういう時代に。歴史は繰り返すだけなのかもな?最後にそう思いました。

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