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雑記(四八)

 NHK連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」が十一月から始まった。三部構成の第一部の主人公は、上白石萌音の演じる橘安子。岡山の和菓子屋「たちばな」の娘である。

 安子は、一九二五年三月二十二日の生まれということになっている。東京放送局がラジオの仮放送を行った日だ。同年三月一日に試験放送が開始され、二十二日に仮放送、七月十二日から本放送が開始されたらしい。同じ三月の十九日には治安維持法が議会を通過、二十九日には普通選挙法が議会を通過している。そういう時節であった。

 安子の母(西田尚美)、祖母(鷲尾真知子)は空襲で命を落とし、兄の算太(濱田岳)、夫の雉真稔(松村北斗)、その弟の勇(村上虹郎)は召集を受けて戦地へ赴く。算太と勇は復員したが、稔は帰らなかった。父の金太(甲本雅裕)も敗戦後まもなく没し、安子はかつて同居していた橘家の肉親すべてと死別してしまう。安子のなじみの喫茶店の息子、健一(前野朋哉)も出征していたから、安子の周囲の若い男たちは、ほぼ例外なく兵士として戦争に動員されたことになる。

 茨木のり子に、「わたしが一番きれいだったとき」という有名な詩がある。一九五八年の詩集『見えない配達夫』(飯塚書店)所収。そのなかの一連にこうある。「わたしが一番きれいだったとき/だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった/男たちは挙手の例しか知らなくて/きれいな眼差だけを残し皆発っていった」。手元の『茨木のり子全詩集』(花神社)から引いた。

 巻末の宮崎治編「茨木のり子略年譜」によると、茨木の誕生は一九二六年六月十二日。「大阪、回生病院で、父、宮崎洪、母、勝の長女として生まれる」。橘安子が生まれた翌年のことで、学年は二個下になるが、同世代と言ってよいだろう。年譜のその後をたどると、一九四五年の項目は、「学徒動員で、当時、世田谷区上馬にあった海軍療品廠で就業中、敗戦の放送を聞く。翌日、友人と二人、東海道線を無賃乗車で、郷里に辿りつく」とある。

「わたしが一番きれいだったとき」には、こういう一連もあった。「わたしが一番きれいだったとき/わたしの国は戦争で負けた/そんな馬鹿なことってあるものか/ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた」。

 わずかではあるが、しかしはっきりと、怒りが見えている。その怒りの矛先は、どこにあるのだろう。戦争、軍部、国家、体制、天皇、あるいは、それを守ってきた大人たちだろうか。茨木の詩にときどき現われて、読者を慄然とさせる怒りである。

 茨木は『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)で、金子光晴の詩「寂しさの歌」(『落下傘』)を引用したあとで、こう書いた。「つづまるところ詩歌は、一人の人間の喜怒哀楽の表出にすぎないと思うのですが、日本の詩歌はこれまで「哀」において多くの傑作を生んできました。「喜」や「楽」にも見るべきものがあります。ただ「怒」の部門が非常に弱く、外国の詩にくらべると、そこがどうも日本の詩歌のアキレス腱ではあるまいか、というのが私の考えです」。

 同書の刊行は『見えない配達夫』の約二十年後だが、茨木の詩に見える怒りの感情は、日本の詩歌の怒りの弱さにいらだちながら、発せられていたように思われる。それは決して、詩歌の表現に限ったことではなかっただろう。茨木は、日本の人々の怒りの弱さに、怒っていたのではなかったか。「カムカムエヴリバディ」の安子も、夫の命を戦争に奪われながら、ほとんど怒りの感情を見せなかった。

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