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友達の基準

友達作りをしようとして、今ある友達に連絡をします。

もうそれは友達なんじゃないか?って思うかもしれませんが、友達というのは本当に微妙なラインで、どこからどこまでが「友達」で、どこからどこまでが「知り合い」なのかは判別できません。

向こうが思ってなくてもこちらは友達だと思っていたり、すれ違いが起こるのが怖くて「私たちって友達なの?」と聞くことすらできません。

だけど、「友達」という垣根をこえて「人として」と考えた時に、そこには「何が正しくて間違っているか」という判断は無粋になってきます。

「人類みな友達」という言葉があるように、友達になろうと思えば誰でも友達になれるし、そこには制限がないはずなのです。

じゃあ、私たちは何に遠慮して、相手をカテゴリに当てはめたり、自分から適切な距離を取ろうとしたりするのか。

それはここで見聞きした情報よりも、自分の「怖い」という感覚の方が勝っていて、だから「母親の基準で友達を選ぶ」なんてことにもなったりする。

何か基準がないと怖くなってしまうのは、「人という存在が分からないから」。

分からないから怖いわけであって、それはたとえば、相手が何を考えているか分からなくて怖くて距離をあけたり顔色を窺ったり、しなくても良いことを気を使ってしてしまう様子です。

そう、「分からないものは怖い」んですね。

だから人は何かの基準を作って安心したがるのかもしれません。

「ここからここまでは大丈夫」という基準があれば、分からないことを悩むのも分からない相手の顔色を窺うこともしなくて良いから。


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