【徒然】止まるというのが存外大変である#67
休職7日目。
朝は薄曇り、のちどんどん晴れていく。
太陽の気配があったので、昨日の死にそうな気分はどこへやら。
とはいえ「元気ー!」という感じでもなかったので、今日は予定通り何もせず、どこへも行かず、ごろごろを極めようと思いました
でも、朝ごはんの片付けを終えると掃除や片付けがしたくなる。
カゴに伏せてある食器類を拭きたいし、シンクを磨きたいし、台所の床も掃いて拭いてをやりたい。
休み始めてから、なんとなく滞っていると気がついた家事は片っ端からやってきました。
その方が気分がスッキリすると思ってのことです。
実際スッキリはするのだけど、次々と「これもやっとこう」を見つけてしまうので気がついたら1時間とか2時間を一生懸命に過ごしていました。
いや、今日はやらないぞ。何一つやりません。
伏せてある食器と鍋に向かってそういい、昨日までは洗っていた炊飯器の空のお釜も水だけはって放置しておきました。
(しかも、今日最後に朝ご飯を食べてお釜を空にしたのは弟なので、なおさらやってやるものかと思いました)
でもこれが、ぼーっとするってなかなかできないんですよね。
やることを探してしまう。
効率よく、無駄なく、1日あたりの最大限の成果を毎日残せるように努力してきたんだな、とふと思いました。
無駄なく過ごせば自分の時間ができてやりたいこともいっぱいできると思ってた。
でも実際はどうだ。
効率よく、無駄なく過ごそうとすればするほどなんとかしたいことが目の前に現れたんではないか?
わたしはもっと、見て見ぬふりをしたり、考えて気づいてしまうことをやめた方がいいのではないか?
ともあれ今は、速度を落として休憩しなくてはいけない時期。
だけど全速で走ってきたところへブレーキをかけるのは容易ではないですね。
今日はまた読書に助けられました。
先月買った、上橋菜穂子さんの守り人シリーズ『炎路を行く者』をひたすら読んだ。
上橋さんの、激しいメッセージがこもった物語は、私の雑念など入り込む余地のない密度で脳も心も包んでくれます。
読み終わった後も余韻を壊したくなくて、「何かしなくては」という考えに駆られることはありませんでした。
午後はまたゆっくり昼寝して(お話の余韻で呆然としているうちに眠くなってきた)、
夕方は日光を浴びに1時間ほどひたすら歩いてきました。
誰にも、自分にも邪魔されずよく休めた。
いい休息になったと思います。
写真は散歩コースのある場所と私のセロトニン源の太陽。笑