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モラトリアムをきこりの泉に落としたら女神が手渡すMY FOOLISH HEART

ついこの間吉井和哉の「MY FOOLISH HEART」を聴いていた。大学生の頃沢山聴いていたから、少し学生生活を思い出したりした。

大学で英米文学を専攻していた自分は、3回生の年末にイタリアへと卒業旅行にいった。子供の頃からなんとなく英語に触れるのが好きでどちらかといえば英語だけ勉強する手がすらすら進んだのだ。それもあって心の端で「海外行っても困らないくらいの英語力身につけておこ…」という小さな目標が立っていた。母国語が日本語の国に暮らしている我々でさえ「英語を学びな」と言われ続けてきたのだから一歩外へ出ていくと世界共通言語はきっと役に立つに違いない。そんなことを思いながら英語に触れていたのだ。しかし実際イタリアへ行くと現地の言語どころか身に付けた英語が盛大に役に立つ機会はほとんどなく、その他大勢同期や教員や姉妹大学の教員学生の後ろについていくだけで3〜4日間なんとかなってしまった。唯一使った英語やイタリア語も観光ガイドブックの表紙の裏に書いてある"これで旅には困らない!"みたいなセンテンスしか使うこともなく、ほんとうななんとかなってしまったのだ。帰国語、卒論に取り掛かり始める頃にはなんだか動機が霧のように揺らいで消えかけて、結局論文を提出して卒業するまで2年弱長くかかってしまった。自分が今まで手を進めながらやっていた勉強って社会に出たあと役に立つものではなく、割と目下に訪れる定期試験とか受験を乗り越えるための勉強だったのかもしれなかったなと長めにへこんでしまったのだ。大人になってから「もっと学生の頃勉強しとけばよかった〜!」と感じることがあるというが、あれはほんの少し嘘だと思う。どんなに工夫しても社会勉強と試験のたびにする勉強が次々とやってきて、誰もがいっぱいいっぱい。大人になってからの方が絶対勉強できる気がする。無謀な主題なのだこれは。


さて、いかなる言葉を綴るときも最終的には光が差し込むか差し込まないかぎりぎりの余韻を残したいと思っている自分だが、ここからどうにかしてモラトリアムから脱出して力技でエッセイを締めたい。やっぱり色々考えると言語の壁を突き破る音楽の威力すごい。たぶん、日本語だらけの自分の持ち歌だけを持ってイタリアに行き、Måneskinよろしく路上ライブしたら1000人中1人はハートを確実に掴める気がする。結局行ったことない国でも歌ったことない場所でも、現地に向かって取り組む経験が座学を越えることが沢山あるのだ。そんな中、自分はほんの少し座学が好きだったということなのかもしれない。更に、座学の先には確かなフィールドワークの応用があるのだと思い込んでいたのもある。実際には座学と体験はステップではなく同時進行だったのかもしれないなと今になって思う。大人になってから「もっと学生の頃勉強しとけばよかった〜!」と感じるあれは、自分のなかでは勉学と社会練習が上手いこと絡み合わなかったなということにしておこう。そして大体、過ぎてからそういうことには気付くのだよ。出来るだけ、過ぎていって手のひらからこぼれ落ちる前にまだ沢山今から並行して学んでいけるな…。と思いながら、日々ギターを弾きボイストレーニングをやっている。

あまりに冬の時代の話しかしていないから最近由比ヶ浜に行ったときの写真置いておきますね。毎日暑いね、なんなんだね。




アルバム『幽霊船はうつらない』も引き続きよろしくおねがいします!聴いてね。noteにアルバムにまつわる記事沢山書いておきました。

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