【書評】世界最高の人生指南書 論語/守屋洋/SBクリエイティブ
世界最高の人生指南書 論語/守屋洋/SBクリエイティブ
(このnoteは2019年5月4日に他サイトに掲載した記事の転載です)
2019年になってから、「禅」に関する本を読んだりする中で、
「東洋思想」
とういうものに興味を持ち始めていた。
東洋思想というもの自体をうまく説明することはできないが、
「禅」や「論語」、「孔子」、「老子」、「菜根譚」などの何千年もの歴史のある書物の思想が、実際に現在でもビジネスの世界でも注目を集めているという。
しかし、そんな古典を読もうかと言われても、なかなか、自分は漢文も苦手だし、どうせ難しくて読めないだろうな。。
という先入観もあり、遠ざけていた。
そんな中、本屋にて、古典コーナーに足を運んでみると、
「論語」だけでもたくさんの書籍があるではないか!
ということで、いろいろ漁ったのちに手に取ったのが、今回の本である。
守屋洋さんの古典はシリーズ化しており、落合陽一さんなども絶賛していたし、なにしろ読みやすかった。これなら一見難しそうな古典もいけるぞ。
ということで、守屋洋さんの古典シリーズ、論語からスタートします。
「論語」には、人生論というか、どうやって生きていくべきか、物事をどのように捉えていくと幸せでいられるか、といったようなことの教科書みたいなものである。
孔子とその弟子たちが、「立派な人というのはこんな人だよ。」
というようなことを話している様子が描写されている。
なので、この本を読んでいく中で、共感する部分は無数にあり、
「ああ、そうだよね。そうだよね。」
「そういう時あるある、なるほど、そうやって考えていくと良いのね。」
といった感情を常に持ちながら読み進めていけた。
そんな中で、自分の中で特に印象に残った部分は下記の3点である。
1 和而不同
2 「士」
3 2500年の時を超えてもなお読まれ続ける
―――――
1 和而不同
これは
「わじふどう」
と読む。
論語の中でも有名な言葉ようだが、初めて聞いて、とても良い言葉であると感じた。
論語の本文は、
「君子和而不同。小人同而不和」
「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず。」
君子というのは、偉い人。理想とされる人物。
小人とは、未熟な人間のこと。
「和」というのは、自分をしっかり持って、その上で周りの人たちと仲良く付き合い、互いに協力し合うことをいう。
「同」というのは、自分を持たずに周囲に同調することをいう。
この二つには、主体性があるかないかという大きな違いがある。
この言葉を要約すると、
うわべばかりで馴れ合いで付き合うのは、未熟な人間のすること。
個性豊かでたくましい人間が集まりながら、いざという時に結束していくのが、できる人間のすること。
ということだ。
ラグビーチームという組織作りに関わっている人間として、とても響くものがあった。
そこに主体性があるのか。
自分の意思を堂々と主張し、相手の意見も尊重しながら、協調して目標に向かっていけるチームであるのか。
自分の主張と、相手を尊重すること。この二つのバランスが大事。
自分の主張を押し通し過ぎていては、チームが一つになるわけがない。
逆に相手の意見を尊重するばかりで自己主張を控えてばかりいては、一見仲良しに見えるかもしれないが、馴れ合いによって組織としての活力は衰える。
論語の中で、別の似たような文章もあった。
「泰而不驕」
「泰にして驕らず」
毅然としていて、かつ謙虚である
という意味である。
自分の意思とチームの意思を考えられる人間が集まった時、チームと自分の両方が最大限に効果を発揮できるのではないかと感じた。
理想とするチーム像にふさわしい良い言葉である。
2 「士」
論語の中で使われる「士」とは、現代風に言うとリーダーのような存在のことをいう。
「士」とはどういう人間であるべきか、ということが述べられている。
・実直で曲がったことを嫌う
・発言や表情の裏を読む
・思慮深く謙虚である
2つ目は、最近自分の中でテーマとしていることの一つでもある。
リーダーの役職につく前は、どちらかというと、自分のパフォーマンスが全て。チームが負けても活躍できたらハッピーだと思っている部分があったが、
チームを移籍してキャプテンを任されるようになり、自分の「チームや仲間への関心」の低さが圧倒的なウィークポイントであると感じてきた。
「和而不同」で説明したところの、自分の主張と他人を尊重することのバランスが悪い状態である。
読書を通しても、様々な価値観を体感し、いろんな人間を受け入れるトレーニングをしている。
「人を知る」という、今まであまり注力してこなかった部分は自分にとっては伸び代があり過ぎたのか、最初は意識的に人と接しようとしていたが、最近では純粋に人に興味をもって接していくことが楽しくなってきている。
立場によって人との関わりに少しづつでも変化があったのかなと感じた。
また、
「士は以って弘毅ならざるべからず」
という言葉も響いた。
リーダーは弘毅でなければならない。
「弘」という字は「ひろし」と読む。
視野を広くもってものを見るという意味だ。
「毅」という字は「つよし」と読む。自分の名前でもあるこの字の意味は、
強い意思を持って困難があってもへこたれない、たくましさを意味する。
弘毅とは、ここもやはり、
自分を持つ強さと、周りのことからも取り入れる柔軟な視野の広さ、このふたつのバランスが整っていることである。
論語の中で使われる「士」に倣って、この二つのバランスを保てる人間になっていく。
3 2500年の時を超えてもなお読まれ続ける
純粋に、読んでいる最中から持ち続けていた感想である。
ここまで現代風に解釈して理解できる思想が2500年も前から読まれ続けているということにただただ感心してしまう。
そして、その歴史の説得力が半端じゃない。ここに立ち返れば良いのかなと思わせてくれる。
1と2でも似たようなことを書いたが、論語の中では、
「自分の持つ理想を貫くことと、自分ではどうにもできない現実を受け入れること」
その大切さ。内と外のバランス。そんなことを説いていると感じた。
それはどのフィールドでもいえることである。だから万人に愛されているのではないか。
例えば、スポーツの世界では、
プレー中に自分ではコントロールできないことに直面した時、その状況をどういった態度でいられるか。
チームマネジメントでもそう。思い通りにいく時(内側優位)、いかない時(外側優位)、どう振舞うことができるか。
そんなことが、2500年も前に解き明かされていたということに、ただただ、感動。
そして、そんな理想とする姿がわかっていながらも、人間は何度も過ちを犯し続けてしまう。何度も何度もそうやって間違えては直し、間違えては直しを繰り返してきている人間社会というものを、そうやって考えて俯瞰してみてみると、人間いつどんな時でもまだまだ未熟なんだなと感じる。
どんなに優秀な人も、まだまだ。
きっと今後2500年も読まれ続ける。
これからも人間はたくさん失敗して、学んで、を繰り返していく。
パーフェクトな人間はこんな人だよねと言いながら、そんな人はいない。
だから人生面白いのだと思う。
―――――
哲学の教科書のように感じた。
「国語」の中で、古典として紹介するのではなく、
「論語」という授業をやってしまえば良いのにと思った。
「古典」というワードの、不思議なハードルの高さが、読むことを遠ざけがちであるが、
この本のように読みやすい本によって広めていけると面白そうだ。
「論語 〜アスリート的解釈編〜」
とか作ってみたら、読みやすく広めることができるかも。