映画は、現実を超越することができるのか。スピルバーグ監督の自伝的作品『フェイブルマンズ』に寄せて。
【『フェイブルマンズ』/スティーヴン・スピルバーグ監督】
スピルバーグ監督の自伝的映画『フェイブルマンズ』は、2020年代において存在意義をシビアに問われつつある「映画」に関する切実な論考である。そして同時に、彼の亡き両親に捧げられた非常にパーソナルな手紙でもある。
この2つの要素は、それぞれが別々に今作の側面を担っているわけではなく、その両方が渾然一体となって強靭なメッセージを伝えている。それ故に、今作がもたらす味わいは重層的であり、そしてあまりにも深い。順を追って綴っていきたい。
まず、前者の、スピルバーグ監督が今作を通して伝えようとしている彼なりの映画論/映画観について。
今作は、スピルバーグ監督の人物像を色濃く投影した主人公のサミー・フェイブルマンが、幼少期に劇場で『地上最大のショウ』(1952年)を観た時、つまり、初めて映画に触れたシーンから幕を開ける。サミーに対して、技術者である父・バートは、映画とは最先端技術の結晶であると教え、その一方で、かつてピアニストを目指していた母・ミッツィは、映画にはたくさんの夢とロマンが詰まっていることを伝える。そうした2つの魅力を誇る映画に、サミーはすぐに心を掴まれる。
まず、ここから幕を開ける幼少期のパートが本当に素晴らしい。8ミリカメラを手にした彼がピュアな表現欲求を思う存分に爆発させていく展開が続き、めいっぱいの映画愛に満ちたシーンの数々に何度も温かい気持ちが胸の内に込み上げてくる。妹たちと一緒に家の中で映画を作り上げていくシーンは、今作が誇る眩いハイライトの一つであると思う。
しかし、青年期のパート以降、今作のテイストは大きく変容し始める。サミーは映画制作を通して、残酷なまでに鋭利に現実を映し出してしまう映画の恐ろしさ、暴力性を思い知ることになる。
彼の葛藤は、家族でキャンプに出かけた際に、あるシーンをフィルムに残してしまったことから始まる。その出来事は事故的に起きてしまったものではあるが、決定的であったのは、高校のイベントの模様を撮影/編集した短編映像であった。その時にサミーは、映画は、否応もなくありのままに現実を映し出すだけではなく、作り手の(意識的、もしくは無意識的な)演出を通して、観る者に現実を増幅させた鮮烈な印象を与えてしまい得ることに気付く。(サミーのことをいじめていた主犯格の学生が、「高校のスター」であったことは紛れもない事実であった。)物心が付いた頃からカメラを回し続けてきたサミーが、そうした映画の魔力に向き合ってしまったことで心を苛まれる青年期のパートは、強く胸を締め付けるほどに悲痛なものである。
それでも彼は、映画作りから背を向けることはできなかった。彼は、自らが秘める恐ろしいまでの才能に対して明確に自覚的であっただけでなく、その自覚は作品を重ねるごとに次第に深くなっていった。それ故に、たとえ映画を撮ることによって、自らを、そして自らの家族や友人を傷付けることになったとしても、どうしても彼は映画作りを止めることができなかった。そう、サミーは、初めてカメラを手にしたその時から、映画作家としての深い業を背負い続けているのだ。
映画は、ありのままの現実を残酷に切り取ってしまうことを認めた上で、それでは、映画は、そうした現実を鮮やかに超越することができるのか。まだ誰も観たことのない世界を描くことができるか。観客に未知なる驚きと興奮を送り届けることができるか。そして、作り手の想いやメッセージを、届くべき人のもとへ正しく伝えることができるか。映画作家としての業を胸に、そうしたテーマに再び真正面から向き合い始めるサミーが、ある手紙をきっかけとしてキャリアの出発点に立った時、今作は、至高のラストシーンへと向かう。スピルバーグ監督の身に実際に起きたことを「一言一句そのまま再現した」という今作のラストシーンの快活さは凄まじく、また、そこから幕を開ける彼の映画作家としての歩みに思いを巡らせると無類の感動が押し寄せてくる。
そして冒頭でも触れたように、今作は、スピルバーグ監督の亡き両親に捧げられた非常にパーソナルな手紙でもある。(2017年に母・リアが、2020年に父・アーノルドが、それぞれ他界している。)
スピルバーグ監督のフィルモグラフィーを振り返ると、これまで彼が手掛けてきた数々の作品においては、自身が青年期の頃に経験した両親の離婚というショッキングな出来事の影響が、まるで通奏低音のように響き続けていることに気付く。
例えば、『未知との遭遇』(1977)は、異星人とのコンタクトをきっかけとして、最後には無責任に家庭を捨ててしまう父親が主人公の物語であった。また、『A.I.』(2001)では、ある夫婦のもとに代理息子として預けられたロボット・デイビッドが、強い愛情で結ばれていたはずの母から捨てられてしまうという悲痛な展開が描かれていた。ここで特筆すべきは、基本的に脚本の執筆は別の脚本家に任せるスピルバーグ監督が、『未知との遭遇』と『A.I』においては自らが脚本家として関与していることである。(『A.I』は、故・スタンリー・キューブリック監督が長年にわたり温めていた構想を引き継いだものではあるが、上述の展開はスピルバーグが加筆したもの。)もちろん、この2作品以外のスピルバーグ監督作品にも、例えば、母子家庭の主人公を描いた『E.T.』をはじめ、彼自身の家族にまつわる心の傷やコンプレックスが色濃く反映されている。
しかし今作『フェイブルマンズ』においては、サミーの父・バート、母・ミッツィに対する温かい肯定の眼差しがまっすぐに貫かれている。それは、2人の価値観や選択を、それぞれの一人の人間としての人生を尊重し、そして最後には許しを与えるような優しい眼差しである。ありのままに現実を映し出すのではなく、明確な意志をもって、現実を編集/演出してみせた今作は、まさに、映画の形をした父・アーノルドと母・リアへの手紙である。彼がこれほどまでにパーソナルで無防備な作品を作ったのは間違いなく今回が初めてであり、今作が、スピルバーグ監督のキャリアにおいて最重要作品の一つとなるのは確定的であると言える。
映画という魔法、その力を心から信じながら今作を作り終えたスピルバーグ監督は、既に、次の企画に着手し始めているという。彼にとって今作は、キャリアの総括でもなければ、最後の集大成でもない。76歳を迎えたスピルバーグ監督は、これからもフレッシュな野心を燃やしながら、新しい映画を次々と作り続けていく。そしてその度に、私たち観客は、現実を鮮やかに超越していく映画の力に、何度も何度も魅了され続けていくのだと思う。
スピルバーグ監督の映画作りの旅は、ここからまた続いていく。
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