夾竹桃の花③ 薫風寮
短いオリエンテーションが終わり、本格的に講義が始まった。一般教養科目の受講生は多かったが、学生同士が親しくなるような環境にはなかった。語学の講義だけは人数も少なく、周りに座る学生の顔姿は記憶に残る。しかし、話をするような機会はなかなか訪れなかった。
講義の合間に図書館で物色し、本を借りては下宿に持ち帰り、暇々に開いては読んでいた。ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』は妙に読み進めたい魅力があったが、意味の分からないことも多く、棚上げしながら読み進めていった。徳富蘆花の『思出の記』も読んではみたが、比叡山行の際に、隣を歩いていた友達の死が慟哭を誘うこともなく、印象にだけは残った。
第二外国語にドイツ語を選択した。明治維新改革の時、伊藤博文が憲法の調査のため欧州に渡り、ベルリン大学の憲法学者グナイストたちに教唆を受け、ドイツの憲法を念頭にしたと聞いたからだ。拓は長州男児ではなかったが、周防男児だった。伊藤博文が周防出身だったので、明治維新当時の若者にシンパシーを感じていた。
第二外国語のクラスは他のクラスよりも履修者同士の距離が短かったような気がする。後に、ドイツ語を履修した先輩からもよくアドバイスをもらっていた。ドイツ語クラスの同級生の一人とかなり親しくなった。彼は薫風寮に住んでいた。
薫風寮は、寮と言いながら、赤煉瓦造りだったが、かつての陸軍被服工廠だった建物を、ただ住めるように改装しただけだった。当時は周りの建物も同じようなレンガ造りが多かった。また、家々は掘っ立て小屋とはいえないが、決して体裁のいい家ではなかった。復興を果たすにつれて、周りは次第に変わっていったが、薫風寮はそのまま残っており、鉄扉や窓枠は原爆の爆風でゆがんだままで、閉じることすらできていなかった。
新制大学が発足した当初は、薫風寮費は安くても滞納があり、管轄の文部大臣から督促があったと言われている。同級生は決して貧しくはなかったが、豊でもなく、生活費を浮かせるために、寮住まいを選択していた。そのときでも、薫風寮の寮費は他の下宿に比較しても高くはなかった。
友達に誘われるまま、薫風寮に遊びに行った。薫風寮はかなり荒れていたが、まだ旧制高校時代の雰囲気が残っていた。彼はバンカラスタイルに憧れ、コンパの後には高歌放吟もしていた。
新学期の慌ただしさがようやく落ち着いた頃、学部は違うが、同じ出身高校の知り合いから新歓コンパに誘われた。当日出かけていくと、意外と学生が集まっていた。中には顔見知りがいたが、彼とは学部が違っていた。彼は非常に優秀で将来を嘱望されていた。彼とは差し障りのない会話に終始していた。
拓が通っていた高校は、男子中心の高校だったが、一クラスだけは女子だけの進学クラスがあった。その中のほとんどが大学に合格しており、この大学にも数名が合格していた。彼女たちはつるんでいるかのようにグループで話していた。
一人の男子学生が女子グループの中に知り合いがいたらしく、女子グループに近づいていった。彼はその中の一人と話し始めた。彼が話しながら振り向いた。誘われるように男子学生数名が近寄っていく。やがて彼らは話し始め、小さなグループになっていった。
拓は男子学生一人と残され、女子学生も二人残されたように立っている。その中に顔を見知っている学生がいた。高校の運動会で同じチームに所属し、演舞を披露していた。彼女も覚えていたらしく微笑み返しする。拓は彼女の名前を思い出していた。(そうだ、村井佳代子さん)学部は同じだが、課程が違っていた。学生同士、互いに情報交換のように話し出す。
司会がコンパの終わりを告げた。皆は互いに挨拶し、会場を離れていった。拓は話していた男子学生と村井佳代子達に軽く会釈しながら会場を出て行く。
夾竹桃の花① https://note.com/tsutsusi16/n/n9cb954d68557
夾竹桃の花② https://note.com/tsutsusi16/n/nfaa2383b6842
夾竹桃の花③ https://note.com/tsutsusi16/n/na11e000c2c34/ これは③
夾竹桃の花④ https://note.com/tsutsusi16/n/n73ddebdb2e8a/