「フワちゃん騒動」が我が家に及ぼす影響
社会規範は常に変わっていくものである。
親子関係においても、それは基本的には同じである。なぜなら、子供も社会とつながっているからであり、やはりそこにはルールが存在する。
現下、我が家の中学生の娘は反抗期である。
本人なりに多少は家族に気を使っているらしく、父親の執拗な「ボケ」には強めな「ツッコミ」でバッサリと切り返すことがある。
「一回死んでみ」とか返すのだ。
それが結構、掛け合い的にはシュールで面白かったりする。
しかし、「死ね」という言葉自体は一般的には禁句である。
娘が冗談やノリでその言葉を使用していることも分かるし、父親の干渉を避けたい気持ちも見え隠れする。
また、あえて強い言葉を直に使うことで、どの程度相手が傷つくか、記憶としてどの程度残るだろうかと試してみたり、若者言葉や隠語あるいはネットスラングなど、大人が使わないような言葉を使って冒険してみたいのもこの時期の特徴でもある。
それを我が家では、思春期の一時期の「症状」として許容範囲にしてきたわけだ。
しかし、今後は慎重にならざるを得ない。
なぜなら、「社会」がその発言を不適切と判断したようだからだ。
フワちゃんが何を発言しようが、誰が誰を非難しようが、まったく興味が湧かない。
ネットで騒いでいる人たちは極一部なのであり、おそらくほとんどの人にはどうでもいい話なのである。
だって、二人の本当の関係性は誰にも分からないし、芸能人といえどフィジカルな会話の内容までは自由なはずだ。
それを公共の場の情報という形で、誰もがずっと見れるように残してしまうということが問題なのだ。つまりは「ネットリテラシー」の問題なのであって、公共な空間に書き込むという意識が欠落していたのだろう。
しかし、問題は我が家への影響である。
言葉は道具である。
道具である以上、誤って使ってしまうこともありうる。
野球のバットや車であっても凶器となりうるのだから言葉も例外ではない。言葉は頭の中にあるものをすべて取り出して表現することは不可能であり、どうしても情報の一部分を切り取って固定化してしまうという性質を持っている。逆に、言葉で表現されているものがすべての判断基準になるかというと、それも間違いである。
しかし、言葉は仮に凶器として使われてしまえば、その後で「そのつもりはなかった」ではもう遅い。
ルーマニアの社会心理学者セルジュ・モスコヴィッシによれば、「美人の基準はその人にあるのではなく社会にある」という。
どういうことかというと、「この人が美人」だという基準が世の中にあるのではなく、どの時代でも「社会が美人」だとする人が「美人の基準」になる、ということなのである。
フワちゃんはGoogleの広告から削除されるそうだ。すなわち、残念ながら「美人の基準」からは外れてしまった、ということである。
彼女たちは、社会の「炭鉱のカナリア」的役割を担っている。
ある意味フワちゃんのおかげで、日本社会は、ある優れた才能であっても、人間的な成熟をそれほど待ってはくれないことが判明してしまった。
家庭内でも気をつけたほうがよさそうだ。
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