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トゥナイト・トゥナイト

竹下力
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目の前には幸福が灘岡湖の朝霧のように無限にあるけれど
湖までの道のりをかき分けていけば行くほど僕から消えてしまう。
草むらの向こうに大きな銀色の湖が目の前にあって静かにゴオオと鳴っている。
僕はいつだってひとりぼっちで海水パンツに着替える。夏の暑い日。
呼吸をすればするほど苦しくて気づけばどんなに灘岡湖を泳いでも
B29が灘岡大空襲の時に落とした一〇〇万発のクジラ型の不発弾が見つかるだけだし、
僕には本物のクジラが見つからなかったんだ。でもなんだか幸せな気分で
聞いたんだよ。昔、汽水湖の灘岡湖にはシロナガスクジラがやってきたって……どんな想いか知らなくたって、爆発するよりマシな人生だってあるだろうし、
もし、その子がバカげた奇跡を待っていたとしたら、
それが叶うようなたくさんの青水草をあげたいな。青水草って奇跡って花言葉だ。
灘岡炭鉱の近くの青水草が咲く公園で母さんが売血しているのは、そんな風に
僕をひとりぼっちにしない奇跡のためかもしれない。
雪の積もった灘岡山脈の真下の公園で
水着姿でブランコに乗っている僕の傍に止まっているワンボックスの車の中で、
三笠組の暴力団に誘われて血を売っていた。
ワンボックスカーは赤錆だらけだった。僕らは貧乏だった。
父さんは炭塵爆発でぶっ飛んで、
血だらけの粉々になったまま
淡いの霧のようになって空まで飛んでいくのが死ぬってことなら
かき分けても消えてしまうことが僕にとっての幸せだ。爆発したもんな。
嫌いじゃないよ。「あんたまた湖を泳いでいたの」と母さんが右腕の鼠蹊部を押さえながら笑った。左手には八〇〇〇千円の八枚の紙屑がクジラのように見えた。僕は聞いた。
「そうね。あんたが子供の頃に産気づいたクジラが迷い込んでニュースになったわ。子供を産んだけど死んじゃったのよ。両方とも。血だらけで」と母さんが言った。「幸せを求めているのなら求めにいかなくちゃね。今日は何を食べようかしら?」
「なんでもいいよ」と僕は答えた。「母さんが望むなら」
本当に。母さんが望むような男になれるのなら。走って逃げられるうちに。
母さんが連れて行ってくれた中華料理屋「花鉢」の油ぎったテレビでどこかの海でシロナガスクジラが潮を吹いていた。虹が瞬いて潮は父さんの血のようだし青水草の花弁だった。
母さんはレバニラ定食を食べていた。
「何見てんのよ」と母さんは笑ったけど真剣な顔になった。「ねえ、今度血を売ってみない? 私の血だけじゃ足りないみたい」
僕は母さんの子供なのかな?
これが夢みた奇跡だったのかな? クジラの親子は爆発したかったのかな?
そんな今夜、父さんが爆発した夢を見た。不発弾は爆発しなかった。
爆発させようとするんだよ。そうすれば僕だって……。たくさんの血が降り注ぐだろう。
父さんにとっての幸せも、母さんにとっての幸せも、
僕だって確かに幸福を手に入れられるはずなのに、
母さんが血を売った後、ワンボックスカーの裏手で三笠組の若頭の三好さんとヤっていたことは、どんなことがあっても
内緒にしておこうと誓ったんだ今夜、今夜だけは。
そうして灘岡湖からクジラの潮吹きの音が聞こえた時にはちょっと笑ったものだ。

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