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第七回 前編『アメリカ』フランツ・カフカ/訳 中井正文(角川文庫)

 今回はフランツ・カフカの長編小説『アメリカ』を読みたいと思います。カフカといえば『変身』など不条理な短編小説がなじみ深いかと思いますが、この長編『アメリカ』は意外と読まれていないのではないでしょうか。というのも私がそうだからで、カフカの短編小説は何度も繰り返し読む事があるのですが、長編小説はなかなか手を出しにくく、それはなにより未完である事が理由として大きく上げられます。カフカは長編小説を他に『城』『審判』と書いておりますが、全て未完の作となります。未完の長編小説を読む徒労は想像に難くありません。ちなみに『城』や『審判』といった小説はいわゆるカフカ特有の不条理小説で、いってしまえば最後がなくてもまだ納得がいくというものです。しかしこの『アメリカ』は、カフカにとってはおそらく異色といってもよい冒険小説なのです。未読なので、どういった内容か詳細は不明ですが、今までに関連書籍などで得た知識で申しますと、『デイヴィッド・コパフィールド』や『大いなる遺産』などの作者ディケンズの小説を意識して書かれたといわれています。思うに、骨太の物語小説である事が考えられます。しかも未完。ここまで書くと、全く読む気がしない方もおられるかもしれませんが、「物語の終わり方」について少し考えてみようではありませんか。

 物語というのはあくまでその「世界」の一部を切り取っただけにすぎません。その世界の住人には、物語の後もまたその生があり、その前もしかりです。恣意的に編集した断片に対して、「物語の外」の人間がああだこうだ言っているだけだと考えれば、その世界を覗き見るのに、どこで終わろうがどこで始まろうが、それはその世界を垣間見ることが出来なくなった時点で終了としても何の問題もないのではないかと、そんな風にも感じるのです。例えばあなたに恋人がいたとします。もしくは既に恋人やその他パートナーがいる方はその方を想像してみて下さい。その恋人に出会ったのは恋人の出生からというケースは稀な筈です。あなたにとっての恋人の物語のはじまりは、あなたが恋人と出会ったその時からになります。しかし、その恋人自身の人生の物語はこの世に生を受けた時からに違いありません。また、その恋人と一生を共にしたとしましょう。あなたが先に死んでしまった場合、その恋人にとってあなたは物語の途中で死んでしまった登場人物にすぎません。でも、それがあなたにとっては恋人との物語の完結となります。物語の終わりというものは主観的な、単なる切り取り方でしかなく、だからこの『アメリカ』は、その世界のひとつの断片として楽しむのが良いのではないかと、そう思い、終わりを気にせずに「ただ読んで」いこうと思うのです。

 更にこの作品に関して申しますと、第一章の『火夫』という話は、長編の一章にもかかわらず、独立した短編小説としても短編集に収められており、一つの物語として読まれています。これこそ物語の結末についての答えのような気さえします。また『アメリカ』というタイトルですが、これはカフカの死後その作品の発表と編集を務めた友人のマックス・ブロートの手によって名付けられたタイトルで、カフカの日記によると『失踪者』というタイトルが元々は付されており、ブロートが『アメリカ』としたのはカフカがつねづね友人に「ぼくのアメリカ小説」と書きかけのこの物語について語っていたからだそうで、その事もまたカフカにまつわる物語のようでもあり、この未完の小説もカフカという人生の物語の一つの章とも感じられ、こうなるともう、あらゆる出来事は全て入子式に物語化し、どこもかしこも物語だらけなのであります。それでは『アメリカ』という物語を読む、というこの物語は、次回後編へと続きます。

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