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他人の過ちは見やすいが自分の過ちは見がたい(『ダンマパダ』252偈より)

この言葉を見て、誰の顔を思い浮かべましたか?
 「まさにあいつのことだな!」とか、「うちのダンナのことだわ!」と思ったあなたに、釈尊はきっとこう言われるでしょう、「そういうところですよっ」と。
 私たちは、他人の過ちはよく見えます。そしてそれを指摘し批判します。一方で自分自身の過ちはなかなか見ようとしません。また、仮に見えていたとしても、隠そうとします。
 このような、自分のことは棚に上げて、他人の過ちを見つけては批判する私たちのあり方を、釈尊は「他人の過ちを楽しんでいる姿だ」といい、「それは自分自身を汚す行いなのです」とおっしゃいます。
 仏教の言葉は、他人の話ではなく自分自身のこととして聞くことが大事。「他人の過ちは見やすいが、自分の過ちは見がたい」という釈尊のお言葉も、まさに私に向けられた言葉だと受け止めるのです。そして、周りの人の過ち、悪いところが気になってしかたがない時には、自分にも同じようなことがないかと省みる。このように自分の悪いところに向き合えるようになると、少しだけ人に優しくなれるかもしれませんね。
(本願寺新報2022年5月10日掲載)


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