先のことを考えて人生の筋道を立てたり、過去を振り返って自らの歩みを省みることはとても大切なことです。けれど、まだ来ていない未来を想像して苦しんだり、過ぎ去った過去に立ち止まって後悔しているだけの状況には、肝心の「今」がどこかへいっているようにも思えます。 私たちの人生は「今」の積み重ねです。二度と訪れることのない、たった一度限りの今を生きています。そんな今を、どこまで丁寧に歩めているのだろうか、ちゃんと向き合って生きているのだろうか。そう自問自答せざるを得ない毎日を送って
語り手:大城貴代子さん(沖縄別院責任役員) 来年はもう戦後80年を迎えます。私は終戦の時は5歳で、幼いころから戦争の怖さというのを実感していましたが、今、私たちの沖縄では、去年、一昨年ぐらいから、もうひしひしと戦前の沖縄のような状況が何かまたやってきているような感じがしています。 この6月は本当に沖縄の私たちにとっては忘れられない悲しい月です。戦争の時、梅雨の大雨の中で、県民が壕から追い出されたり、壕の中で苦しい体験をしたことを、やはりもっと沖縄から発信していかないといけな
この言葉を見て、誰の顔を思い浮かべましたか? 「まさにあいつのことだな!」とか、「うちのダンナのことだわ!」と思ったあなたに、釈尊はきっとこう言われるでしょう、「そういうところですよっ」と。 私たちは、他人の過ちはよく見えます。そしてそれを指摘し批判します。一方で自分自身の過ちはなかなか見ようとしません。また、仮に見えていたとしても、隠そうとします。 このような、自分のことは棚に上げて、他人の過ちを見つけては批判する私たちのあり方を、釈尊は「他人の過ちを楽しんでいる姿だ
「和顔愛語」(わげんあいご)とは、穏(おだ)やかな表情と優しい言葉。 いつもそうありたいとは思っても、現実にはそうもいきません。イライラすると不機嫌な表情になり、時には乱暴な言葉さえ投げつけてしまいます。「どうしてあんなこと言ってしまったんだろう」と後悔することもしばしばです。 一方で、表面だけ愛想を振りまき、二枚舌やおべんちゃらということもまた、しばしばです。これらは、私の不実な心が表に現れているのですから、それが偽らざる実態です。 しかし逆に、本当に困っている姿を
世界的な仏教学者の中村元先生は、人類の最も大切にすべき心情は「慈悲」(じひ)、すなわち他者に対する隔(へだ)てなき共感・愛情であり、すべてのいのちあるものの幸せを願う〝温かな心〟であると語っています。 釈尊は35歳の時、真実に目覚めブッダとなり、その後80歳で入滅(にゅうめつ)されるまで、人々の幸福を願い、「真実の言葉」を説かれました。苦悩を抱えた人々は、ブッダの言葉と態度を通して〝温かな心〟に出会い、真の安心と生き方を知らされました。 私たちの人生は他者との出会いの連
故郷は「ふるさと」とも「こきょう」とも読みますね。特に「ふるさと」は、『万葉集』にもみられるほど古くから使われている言葉です。この故郷は「出身地」と同じ意味でも使いますが、さらに拡(ひろ)がりをもった不思議な響きがあります。生まれた場所だけでなくそこで育った頃の懐かしい思い出が、この言葉には込められているのでしょう。 さて、お釈迦さまも晩年に、生まれ育った故郷であるカピラヴァットゥが隣国の大国に攻め込まれ、滅ぼされるという悲しい経験をされています。このお言葉は、その時に発