シェイクスピア参上にて候第五章(一)
第五章 ダンテとセルバンテスとシェイクスピア
(一)シェイクスピアは地中海を愛す
鶴矢軟睦ロンドン支社長がクラーク・ヒューズと米倉アキ子さんを引き連れ、三人一緒にフランクフルトから戻ってきて、しばらく経った後、シティにあるロンドン支社のオフィスで社員十六名の全員を招集して、会議を持ちました。
余程、緊急な情報収集と分析を必要とする事態を、ドイツで感じ取ったようで、荒れるEUのヨーロッパ、これからどうなるのか英国の未来、EUに忍び寄るロシアの陰、特に、米国の大統領がヒラリーではなくトランプに勝利の軍配が上がったことで、ロシアの動きがいろいろなところで出てくるであろうと鶴矢先輩は予測しました。
中国への自動車輸出で潤ってきたドイツ経済が中国経済の減速で躓きを見せている状況など、先行きが見通せない暗雲の予感が否応なく脳裏を駆け巡る、そういった思いが、鶴矢先輩を緊急会議の招集に駆り立てたのだと、わたくしは理解しました。
「今回のドイツ訪問で、いろいろとEUの未来と言ったことに関して検討すべきことが多くなったように思うが、とにかく、英国を含めたヨーロッパ全体の将来を真剣に考えざるを得ないという思いを強くしているところだ。そこで、イタリアのことが非常に心配になってきて、誰かに一度行ってもらいたいということで、みんなを集めた。」
こう切り出した鶴矢先輩の表情を社員一同はじっと見つめたが、ジェニファー・ホワイトが懇願するように言った。
「ツルヤさん、イタリアには是非とも、私を行かせてください。私はエール大学の時代、イタリアの文学、とりわけ、ダンテ文学の世界を知りたくて、イタリア文学を専攻していました。
卒業後、日本の上智大学で日本語を学びましたが、そのとき、大学で知り合ったのが、この同じ場所で働くようになった坪内樗牛(つぼうち・ちょぎゅう)さんです。
同じ年、同じ三丸菱友商事に入ったのは偶然でしたが、お陰様で、会社に入ってからも、日本の流儀に戸惑うことがあったときなど、坪内さんはいろいろと助言して私を助けてくれました。少し余分なことを言いましたが、今回のイタリア行の一人にわたしを選抜していただけないでしょうか。是非ともお願いします。」
鶴矢先輩は、にっこりと頷いて、このように言いました。
「ジェニファー、あなたのことは履歴書を見て、よく分かっていました。すでにわたしが選んだリストの中にあなたの名前は入っています。イタリア語の堪能なあなたはイタリア行には欠かせません。心配しなくてもちゃんと選んでありますから安心してください。」
「わおー!ありがとうございます。ついに念願がかなったわ!イタリアにはまだ一度も行ったことがないんです。初めてイタリアの地を踏みます。ツルヤさん、本当にありがとうございます。」
「ジェニファーのほかに、坪内樗牛君にも行ってもらうよ。二人はコンビネーションがいいから、仕事もはかどると判断したよ。そして、インドでは大変ご苦労してくれたが、もう一度、イタリアでご苦労してもらいたい。近松才鶴君、よろしくお願いするよ。以上の三人をイタリア行とする。みんな異論はないね。」
このようなイタリア行が決行されるに至った背景は、もちろん、EUの成り行きの不確かさが増してきている中、イタリアの状況がどうも思わしくない、もっとイタリア情勢を現地に行って、正確に把握する必要がある、と判断したためです。そういう状況認識の危機感が鶴矢先輩の脳裏を掠め、情報をもっと集めなければならないという思いに駆り立てたのです。
いずれにしても、またもや、鶴矢先輩は、わたくしをジェニファーと坪内さん二人の中に含め、三人でイタリアの現状をできるだけ正確に掴んできてほしい、有益な情報を集めてきてほしいという願いを託したのです。
三日後に、ジェニファーと坪内さんとわたくしの三人は、ロンドンのヒースロー空港からローマのフィウミチーノ空港(レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港)へと飛び立ちました。使用した便はアリタリア航空です。
鶴矢先輩が手配してくれた出迎えの馬淵直美(ナオミ・カッチーニ)さんがローマの空港で待ってくれているはずです。馬淵さんの夫はイタリア人で、ベルナルド・カッチーニという音楽プロデューサーですが、兎に角、楽しい人であると鶴矢先輩は教えてくれました。やんちゃな男の子、ドナッジオ君が二人の間には生まれています。
ナオミさんは六年前まではロンドンの支社の鶴矢先輩のもとで働いていましたが、結婚してローマに移り、そのまま、ローマ支社の責任を任せられることになりました。と言っても、ナオミさんのほかには誰もいません。子育てをしながら、一人で頑張っているわけです。
このカッチーニさんの家族三人で、わたしたちを出迎えてくれましたので、ローマに着いても不安はなく、ちょうど、インドで有島潤一郎さん宅にお世話になったように、カッチーニさんのお宅でこの期間、およそ三週間、過ごすという段取りを鶴矢先輩は整えてくれていました。本当にありがたいことです。
三人がホテルで三週間滞在するとなると、大変な金額が飛びますが、その三分の一の金額でカッチーニさん宅に滞在させていただくという話をつけて、鶴矢先輩は私たち三人をローマに送り出してくれたわけです。
フィウミチーノ空港で面白いものを見せたいと言って、ナオミさんが案内した場所に行ってみると、ダ・ヴィンチの有名な人体図、「ウィトルウィウス的人体図」が出発ターミナルのところに置かれていました。大きな球形のオブジェで、いかにも、ここはダ・ヴィンチのイタリアであるという宣言がなされているようでした。
夫のベルナルドさんは陽気で楽しい人でしたが、ダ・ヴィンチの人体図にはほとんど関心を示さず、音楽のほうがはるかに楽しいのだ、こんなオブジェはつまらないものであると言わんばかりの様子で立っていました。5歳になったドナッジオ君はそこら中、元気いっぱいに駆け回っていました。
ベルナルドさんが運転する車、ストーミーブルーマイカの色調に輝くフィアットティーポステーションワゴンにジェニファーと坪内さんが乗り、ナオミさんが運転する車、トゥルーレッドのフィアット五〇〇にドナッジオ君とわたくしが乗り込むという二台の分乗でローマ市内へと向かいました。
ナオミさんが言うには、ローマでは運転者も歩行者も運転マナー、歩行マナーをそれぞれ守らないことが多いので、運転するにも歩行するにも細心の注意が必要だというようなことを教えてくれましたが、車中からよく観察すると、確かにそういう印象を受けました。フィアットのコンパクトカーが多く走る街の光景を見ると、イタリアに来たのだなあという実感が湧いてきました。
「近松さん、おなかが空いたでしょう。今ちょうど午後1時ですから、昼食を取りましょう。何がいいですか。いろいろ美味しいレストランがありますよ。」
このようにナオミさんが聞いてきたので、イタリア本場のピザが食べたいと答えました。すぐに夫のベルナルドさんにピザの美味しいところへ案内してちょうだいと、ナオミさんは、車の中からスマホで連絡を取りました。
案内されたレストランは、「メイドインネポルス」というお店で、ピザを食べるには「持って来い」のレストランという判断でベルナルドさんが選んでくれました。テルミ二駅という大きな駅の近くにありました。
入ってみると、昼時の午後はあまり込まないそうですが、それでも、日本人観光客があちらこちらのテーブルに見受けられ、ローマを訪れる日本人が多いことがよくわかりました。
お店の名前のピザをベルナルドが注文してくれました。それに、ムール貝とアサリのソテー、イタリアンサラダも加えてくれました。ピザのボリュームがあり、文句なく美味しい本場のピザという感じで、わたくしは大いに満足しました。食べ切れるような量ではありませんでしたが、美味しいので、結局、胃袋の中にすべて収まってしまいました。
ジェニファーも「ソー・グッド」「ディリシャス」「グレイト」「エクサレント」などを連発し、美味しそうに食べていました。坪内さんは日頃から少食で哲学者然とした人ですから、案の定、美味しいけどとても全部は食べられないと言って大分残してしまいました。
ピザを平らげたところで、ロンドンから来た三人はイタリアに来たことを大いに実感することとなり、そのまま、カッチーニ夫妻の提案に従って、円形競技場(コロッセオ)を見学することにしました。
五万人を収容できる娯楽施設場としてその威容を誇っていたコロッセオですが、やはり歴史遺産の感が強く、風化に耐え抜いてきた歴史的な相貌と向き合う時間を過ごしたというのが正直なところです。皇帝、議員、騎士、市民の席がそれぞれ階ごとに分けられ、四層構造の造りであることがはっきりと分かります。
ナオミさんの説明に耳を傾ける一行を離れ、わたくしは自由に回廊を散策したいという思いに駆られ、一人で動き始めました。
三層目の騎士座席から下を見下ろしていたとき、わたくしの意識が朦朧としてきて、見ていた光景が消えました。誰かに肩をポンポンと叩かれているような感じがして、振り向くと、そこにシェイクスピア様が立っておられました。
「ローマに来ましたね、近松さん。生前、私はローマを訪れたことはありませんでしたが、霊の世界へ来てからは肉体の束縛から離れましたので、自由に、ローマのみならずイタリア全土、そして、広く地中海世界を楽しく探訪しています。
地中海の地理的特性こそが、古代文明をはぐくんだ一大要因であることは間違いないと言えるでしょう。どういうわけか、私の作品の多くがこのイタリア半島、地中海、エジプトといったところに惹きつけられ、書き上げられたことを思うと、自分でも不思議な気がします。
私の作品は史実を踏まえるという精神が全くないとは言えませんが、それ以上に、自由な、ときに、破格の想像力に任せ、作品を書き上げたことを告白せざるを得ません。
観客が面白がるという視点を、わたしは非常に大切にいたしました。どうも、わたしには言葉を遊ぶという拭い難い性癖があって、執筆中に言葉の奔流が始まり、言葉と連想の爆発的な相互作用が止むことなく起きて、文章を綴ったことを打ち明けなければなりません。」
「いやあ、シェイクスピア様に、コロッセオでお会いできるとは全く思ってもみませんでした。おっしゃる通り、イタリアを舞台にした作品が多いのには驚きますが、わたくしは『ヴェローナの二紳士』、『ロミオとジュリエット』、『ヴェニスの商人』、『ジュリアス・シーザー』、『アントニーとクレオパトラ』など、むさぼるように読みました。
本当に面白い作品を、喜劇にしても悲劇にしても、お書きになったと感動したものです。」
「面白い人を紹介しましょう。やはり、地中海に面する地域で誕生された大文豪です。おそらく、ご存知でしょう。セルバンテスさん、こちらへお越しください。」
わたくしは、一瞬、面食らってしまいましたが、シェイクスピア様とお話ししていたそのところに、すっと、あの『ドン・キホーテ』の作者セルバンテス様が現れました。
「近松才鶴様でいらっしゃいますか。初めまして。スペインのセルバンテスです。正式に自己紹介いたしますと、ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラと言います。よろしくお願いします。
近松様のことは、シェイクスピア様からお聞きしております。ロンドンでの交通事故で、すんでのところから九死に一生の生還を果たされたのは、シェイクスピア様の御蔭と存じ上げています。」
「近松さん、わたしがセルバンテス様をご紹介したかったのは、実は、わたしの最も尊敬申し上げる作家のお一人であるからです。セルバンテス様がいなければ、このシェイクスピアもなかったと申し上げておきたいほどです。それほど、大きな影響を受けました。
セルバンテス様は一五四七年のお生まれ、わたしが一五六四年ですから、少し、セルバンテス様が先輩でいらっしゃいますが、ほとんど、同時代人であると言ってもよいでしょう。」
「そうでしたか。全く知りませんでした。そうしますと、お二人は、一六世紀が生んだ最強の地中海作家、地中海地域を舞台に書いた作家、そのコンビということになりますね。」
「そう言えば、そのように言えなくもないでしょう。地中海の陽光を浴びると、誰もが地中海に住みたくなるでしょう。地中海で獲れる魚介類の美味を味わったら、地中海こそが天国であると古代人が考えたとしても不思議ではありません。
わたしは故国のイングランドを勿論、愛していますが、地中海の魅力は別格です。残念ながら、地中海の陽光は、イングランドにはありません。」
「本当に、ローマに着いた日に、こうして、シェイクスピア様とセルバンテス様にお会いできる光栄を頂いて言葉がありません。
二十一世紀の時代、世界の激動を見ながら、商社勤めをしているわたくしですが、何の因果か、ロンドンで働くこととなり、スコットランドへ、インドへ、イタリアへと、情報集めの仕事で出張している最中にも、シェイクスピア様がまるで守護霊のようにわたくしを見守り続けておられる僥倖を、「偶然」という言葉で捉えることのできない何かを感じて生きております。
そして、セルバンテス様まで、このたびはお越しいただき、ただただ感謝の至りです。「ドン・キホーテ」の作品をまだ読んでいない非礼をここに深くお詫び申し上げます。さっそく読まなければという気持ちでいっぱいになっております。」
こうして、わたくしは感謝の気持ちを述べましたが、二人は、今回のイタリアでの仕事がうまくいくようにとわたくしを励まして、忽然と消えてしまいました。
コロッセオの二層目の議員座席のところで説明を続けていたナオミさんのところへ、わたくしは戻り、彼女の説明に耳を傾けました。
「当時のローマ人たちは、石灰と火山灰と水を混ぜてセメントを作りました。そのセメントに砂や小石を混ぜてコンクリートを作ることまで発明していました。
コロッセオには一〇〇万個以上のレンガが使用されていると言いますが、レンガで二重壁を造り、その間にコンクリートを流し込んだのです。コンクリートの発明がなければ、コロッセオは完成できなかったと言われています。」
ナオミさんは、非常に細かいところまで、コロッセオ完成までの技術的問題を解説していました。
コロッセオの観光を済ませ、カッチーニ宅へ着いたのが午後五時半頃になっていました。二階建ての立派な家で、部屋数が全部で八つほどありましたが、代々、カッチーニ家が住んでいる家だそうです。
ベルナルドさんの両親は、南イタリアに別荘を構え、ローマの家は息子に譲って、悠々自適の隠居生活を楽しんでいるということです。
ベルナルドさんが面白い場所をお見せしましょうと言って、地下の方へ案内してくれました。
地下のスペースは改装して造り増した部屋だそうですが、案内された大きな部屋は、音楽スタジオになっていました。一〇〇平方メートル以上はあると思われるスペースが広がっていました。
音楽プロデューサーだからと言って、必ずしも、自分のスタジオを持つ必要はないと思いますが、ベルナルドは非常に凝った人物で、自分なりのプランや世界をどんどん作り上げていくのだとナオミさんが語ってくれました。
音楽プロデユューサーはアーティストに会ったり、プロダクションの担当者と話を詰めたり、スケジュールを調整したり、音やビジュアルの方向性を話し合ったりと、実に、いろいろなことをしなければならない仕事で、ナオミさんはそういう夫を支えながら、子育てのほうも手を抜くことができず、わが社のローマ支社の責任まで果たすという多忙な日々を送っているのでした。
岐阜県の山奥にある飛騨で生まれ育ち、国際基督教大学を卒業ののち、三丸菱友商事に入社を果たしたナオミさんであり、ロンドン支社を経て、現在、ローマで家庭生活を営み、わが社の仕事も頑張っているナオミさん、彼女の人生に幸あれとエールを送らざるを得ない心境になりました。