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日本停滞の根源にある虚業の蔓延についてメモ

筆者は政令指定都市内の山の中で野菜や果樹栽培を営んでいる。スモモの枯れ枝を剪定ハサミで切ると、その背景にあるビルディングの林立する都心部が垂直に伸びている。

本投稿は、単なる一農業従事者の視点にとどまらず、土木作業員、建築現場の労働者、店舗スタッフ、介護職員、そして家庭でケア労働を担う主婦など、いわゆるエッセンシャルワーカーたちの声を代弁する試みでもある。
人類の歴史において、農業従事者が自らの声を文字にして残すことは稀であった。というより、そもそもその機会すら与えられなかった。8000年にわたる農耕の歴史の中で、農業労働者たちは文字表現を可能とする教育からも、自らの声を社会に届ける手段からも、構造的に遠ざけられてきた。同様のことは、現代を含む歴史上のケアワーカーたちにも当てはまる。かつての奴隷的境遇にあった労働者の立場から代表して発せられる声と表現することも可能かもしれない。

労働市場の最底辺、もっとも根源的な労働の現場から見下げる景色は、おそらく多くの都市労働者自身が認識するものとは大きく異なっている。高層ビルの明かりは、夜になっても消えることがない。そこで営まれている仕事の多くは、エッセンシャルな労働とは質的に大きく異なりはじめている。
たまたまその時代の狭間に、地理的にも狭間にいたがために両面接することになった筆者が、あくまで根源的な労働の現場から、現代社会の労働構造全体を捉え直す試みである。
これは単なる一部の労働者からの不満や批判ではなく、人類の営みの最も基層的な部分から発せられる、現代社会の労働構造への根源的な問いかけである。しかし、この問いかけは決して、いわゆるタイトルにもなっている虚業と呼ばれる労働を否定するものではない。むしろ逆である。筆者は、

そのような「虚業」と呼ぶべき都市労働がますます促進されるべきだと考えている

。ただし、その促進は、現代社会における労働の意味を根本から問い直すことと同時に行われる必要がある。虚業で日本が覆いつくされた後の世界を、筆者は常に思い描いてワクワクしているのだ。

この不均衡を理解する上で、近年注目を集めているある概念が重要な示唆を与えてくれる。それが「ブルシットジョブ」である。この概念は、人類学者のデヴィッド・グレーバーによって提唱された。筆者のいう「虚業」とは「ブルシットジョブ」とほぼ同義であるが、より矮小化させて伝わりやすくする意図があるため、まずはより大きな含意を持つ「ブルシットジョブ」について言及する。

グレーバーは、現代社会には社会的にはまったく必要のない、あるいは存在自体が害悪ですらある仕事が数多く存在しており、高度資本主義社会では既に全労働人口の40%に上る割合がブルシットジョブに従事していると自ら認めていると指摘した。(筆者はこの割合は大学進学率に比例すると考えている)

確かに現代社会において、毎朝満員電車で出勤し、毎日残業までして、意味のない会議、意味のない上司の機嫌取り、責任逃れのための報連相や書類づくりを、休日返上してでも繰り返した結果、思い返してみると何も社会に対して価値を生産していないという人は少なくない。社会に何の価値も生産していないにもかかわらず、精神は順調にすり減っており、その疲弊した精神を回復させるために、休日にお金を支払いアクティビティに消費し、自身の労働力の再生産に邁進している。

筆者がこの話題をPodcastで配信した後は、大量のメッセージ「私はまさにそのブルシットジョブをしています/していました」という告白が相次いだことから、実際に社会に跋扈していると確信するに至った。
同時に、そのように告白した全ての人が喜び、感謝の意を表しており、自分でも認識しているが口に出せない状態であったことが推察できる。これは、グレーバーの定義するブルシットジョブの一番重要な定義である、「意味はないが、さも有意義であるかのようにお互い演技し続けなければならない」という部分にも合致する。

しかし、ここで注意しなければならないのは、「ブルシットジョブ」という言葉が意味する対象の複雑さである。この言葉は一見、特定の職種や労働を批判するものとして受け取られがちだ。しかし、その本質は、現代社会の労働構造全体が抱える根本的な矛盾を指し示しているばかりか、社会というものが生成された当初から人類が抱え続けてきた、もっと広い社会全体の構造的な歪みに由来している。

ブルシットジョブとは何か。

社会全体の構造的な歪みについては後述するとして、一旦は表層的な労働構造だけでも理解するために、まず現代社会における労働の質的な変容を理解する必要がある。かつての労働は、その大半が具体的な生産物や明確なサービスと結びついていた。一次産業であれば収穫物、製造業であれば製品、サービス業であればクライアントの満足度という、具体的な成果が存在した。
しかし、現代社会における多くの労働は、具体的な成果との直接的な関連性を喪失している。この点において陥りやすい誤謬は、単にオフィスワークや一見無意義に思われる職務を一括りに「ブルシットジョブ」として分類することである。例えば、炎上系YouTuberの活動や行政機関における書類回覧などは、表面的には無意味に見受けられるかもしれない。しかしながら、これらが必ずしも一括りに「ブルシットジョブ」に該当するわけではない。大規模な組織において、情報の処理・伝達や様々な調整業務など、抽象的な機能を果たす仕事は必要不可欠である。炎上系YouTuberも、現代のメディア環境において特有の社会的価値を生産している。また、行政機関における99%の人にとっては一見非効率な書類の回覧システムも、完全なる公平性という社会的価値を具現化するための装置として有効に機能している場合も多い。

つまり、ブルシットジョブは決して「無駄に見える仕事」の単なる集合ではない。それは表層的な無意味さを批判するための概念でもない。より本質的には、現代社会の複雑なシステムを維持するために生み出された、新しい種類の労働を指し示している。
ちなみにブルシットジョブの特徴は、以下のような点に現れると考える。

第一に、この種の労働は、その成果を客観的に測定することが極めて困難である。生産や販売のように具体的な数値で表せる成果を持たない。
第二に、この労働は常に他者の承認を必要とする。絶対的価値創造ではなく、組織内での評価や認知に依存している。
第三に、この労働は無限に増殖する傾向を持つ。一つの業務が別の業務を生み、それがさらに新たな業務を生むという連鎖が発生する。
さらに重要なのは、このような労働が持つ社会的機能である。それは単なる非効率や無駄ではなく、現代社会特有の価値体系を維持するための構造的な要素として機能している。例えば、大企業における様々な会議や報告書の作成は、組織の階層構造や権力関係を維持・再生産する装置として働いている。

この構造的問題の本質を理解するために、筆者のよく知る農業界の例を見てみよう。

農業界に蔓延る虚業


日本の30年に及ぶ停滞は、しばしば政治家の無能さや政策の失敗として語られる。しかし、これは現象の表層的な理解に過ぎない。実際には、多くの政治家が真摯に農業政策の立案と実行に取り組んできたし、国民の大多数も日本農業の発展を望んでいる。
問題は、政策実行のプロセスにおける構造的な歪みにある。ある農業振興政策が決定されると、そこに投じられる予算の大半は、当たり前のように農業現場ではなく、様々な仲介企業によって消費されていく。その過程は、まるで寓話のように滑稽でありながら、深刻な現実として繰り返されている。

スーツに身を包んだ社員たちが連携する行政職員、団体職員を引き連れ、時に10人、20人という大人数で、タブレットやノートパソコンを手に農村を往来する。農作業中の農家に声をかけ、「課題の抽出」のためのヒアリングを行う。
その後、彼らは会議室に集まり、「課題の整理」を行う。パワーポイントのスライドが次々と映し出され、マトリックス図や円グラフが踊る。会議は夜遅くまで続き、次の会議の日程が決められる。そして次の会議では、前回の会議の内容が確認される。結果として行われる農家を集めた勉強会やイベント、既存商品のマイナーチェンジに意味がないとは言わないが、予算規模にあった成果物とは言い難いだろう。

予算消化が近づくと、彼らは見事な手際で報告書を作成する。そこには、現場の農家が口にしたかもしれない言葉が、洗練された専門用語に置き換えられ、問題の所在が学術的な体裁で整理される。「スマート農業の導入による生産性向上」「6次産業化によるバリューチェーンの構築」「サステナブルな農業経営の実現」――これらの美しい言葉の数々は、しかし、翌年の予算を確保するための呪文以上の意味を持たない。

そもそも行政機関が予算を組む時点で、各企業が助言をしており、自社に有利な予算の消費案を提案しているものである。行政としても各分野の専門家ではなく、基本的に数年ごとに職員は部署を異動するため、自分が担当する数年間を「国民・市民のために」上手く回すためには、彼らの助言を受け入れざるを得ない。

皮肉なことに、この報告書や予算案作成の技術は年々洗練さを増している。エビデンスに基づく政策立案は一つのメタナラティブとして機能する。彼らは精緻なデータ分析を行い、説得力のある図表を作成し、もっともらしい提言を並べることに長けている。しかし、その高度な技術は、実際の農業現場の改善とは全く異なる方向に発揮されている。

この構造の最も深刻な問題は、それが自己増殖的な性質を持っていることだ。ある年度の報告書は、必ず「さらなる調査・検討が必要」という結論を含んでいる。それは翌年度の予算要求の根拠となり、同じサイクルが繰り返される。しかも、前年度の調査結果を「踏まえた」新たな施策という体裁を取ることで、予算の正当性はむしろ増していく。

農業界で起きているこの現象は、決して特殊な例ではない。3兆円を超える巨大な予算を投入した東京オリンピックで、立派な企業が連なりどんな競技場でどのような開会式が行われたのかは記憶に新しいが、これは現代日本の政策実行システム全体に共通する構造的な問題である。医療、教育、防災、環境対策――あらゆる分野で、実質的な改善を伴わない見せかけの循環が続いている。そしてこの循環を担う労働はまさに、現代における最も洗練されたブルシットジョブの一つとなっているのである。

このような問い直しは、実はブルシットジョブに従事する人々にとっても重要な意味を持つ。なぜなら、彼らもまた、自らの労働の意味を見失いつつあるからだ。その意味を回復するためには、まず労働の現代的構造を理解し、その上で新たな価値の体系を構築する必要がある。

日本社会の停滞の原因を、特定の政治家や利権団体に求めることは、問題の本質を見誤ることになる。より本質的な変化は、私たち労働者自身の内面において、静かにしかし確実に進行してきた。それは以下のような重層的な変質として理解することができる。

第一に、価値創造の実感の喪失がある。かつての労働者は、自らの労働が具体的な価値を生み出していることを、身体的な実感として持っていた。工場労働者は製品の完成を、農業従事者は作物の収穫を、教師は生徒の成長を、具体的な形で確認することができた。しかし現代の多くの労働者は、自らの労働が何を生み出しているのかを実感できない。それは単なる実感の問題ではなく、労働者としての自己理解の根本的な変容を意味している。

第二に、この変容は、労働者の欲望のあり方自体を変質させている。具体的な価値創造の喜びに代わって、組織内での評価や地位、あるいは金銭的報酬という抽象的な価値への欲望が前面化する。しかもこの欲望は、決して充足されることがない。なぜなら、それは具体的な達成や完遂を持たない、永続的な過程としてしか存在し得ないからである。

第三に、そしてこれが最も重要な点だが、この変質は個々の労働者の意識や態度の問題を超えて、社会システム全体の機能不全として現れている。例えば、ある政策の実施が決定された時、その実行を担う私たち労働者の多くは、実質的な成果を上げることよりも、組織内での評価や予算消化、さらなる予算獲得のための実績作りに没頭する。これは決して個人の怠慢や無能力の結果ではない。むしろ、現代の労働構造が要請する合理的な行動様式なのである。

このような変質は、社会全体の停滞を生み出す自己強化的なメカニズムとして機能している。実質的な価値創造よりも組織内での地位や評価を重視する労働者が増えれば増えるほど、組織はより形式的な評価システムに依存するようになる。そしてその評価システムが強化されればされるほど、労働者はより一層、実質的な価値創造から遠ざかっていく。

ゆとり世代からZ世代にかけての労働姿勢もまさにこれらの構造に由来するのではないか。新しい世代はこの構造の空虚さを痛烈に認識している。彼らは、かつての昭和時代に実際に世界を驚愕させるような多くのモノやサービスを生産し続けた先輩世代が提示する物語を、素直に信じることができない。入社時の面接では建前として「御社の企業理念に共感しました」「新しい価値を創造したいです」と語るものの、その言葉自体がすでに演技であることを彼ら自身が十分に理解している。

なぜなら、彼らの知る世代は、すでに具体的な価値創造から遊離した「虚業」に従事する最初の世代だったからである。毎日遅くまで会社に残り、休日も「資料作成」に追われ、永遠に終わらない会議に参加し続ける姿を、彼らは子供の頃から観察してきた。そして、その労働が本質的に何も生み出していないことを、鋭敏に感じ取ってきた。
このような認識は、彼らの労働に対する態度を根本的に規定している。彼らは最初から、組織の中で出世することや、高い地位を得ることに関心を示さない。なぜなら、その先にあるものが、より洗練された形の「虚業」でしかないことを知っているからだ。部長や課長となって会議室に籠もり、意味のない資料作りに没頭する生活など、彼らにとって何の魅力も持たない。

しかし注目すべきは、彼らが単純な「働きたくない症候群」を示しているわけではないという点である。彼らの多くは、実質的な価値創造に対して強い関心を持っている。プログラミングや動画制作、音楽、アート、あるいは(驚くべきことに)農業や工芸など、具体的な技能や成果が明確な分野への志向が強い。つまり、彼らが拒絶しているのは「労働」そのものではなく、価値創造から遊離した「虚業」としての労働なのである。

このような若者たちの態度に対して、企業の側も変化を始めている。最近では「ホワイト企業」を標榜する組織が増えているが、その実態は興味深い。これらの企業の多くは、すでに価値創造を放棄し、組織の維持それ自体を目的化している。社長も役員も社員も、全員が「虚業」の演者として、互いの演技を支え合っている。残業はなく、休暇は取り放題、服装も自由。しかし、そこでは本質的な価値創造はほとんど行われていない。

このような企業が「ホワイト」と呼ばれる現象は、私たちの社会が直面している根本的な矛盾を示している。かつて「ブラック企業」と呼ばれた組織の多くは、少なくとも表面的には価値創造への執着を示していた。しかし「ホワイト企業」は、その執着すら放棄している。全員が適度に手を抜き、適度に成果を装い、適度に満足する――これが新しい組織の理想像となりつつある。

つまり、若い世代の「虚業」への幻滅は、皮肉にも「虚業」のさらなる洗練をもたらしているのである。彼らは価値創造から遊離した労働の無意味さを見抜いているが、その克服ではなく、より快適な形での維持を選択している。この傾向は、日本社会全体の停滞をさらに加速させる可能性が高い。

しかし、この状況は必ずしも悲観的な結末のみを示唆するものではない。むしろ、若い世代の価値創造への潜在的な志向は、新しい可能性を示唆している。彼らが求めているのは、具体的な成果と直接的な満足を伴う労働のあり方である。この志向の火が消えている訳ではない。

【哲学的分析】労働主体の自己分裂


現代のサラリーマンという労働形態ではそのほとんどの場合において、意味作用を他者へと差し向けることでしか存立できないことが多い。それはみずからの存在証明を絶えず先送りにしながら、しかも執拗に自己準拠的なシステムを維持しようとしており、実体的な価値生産から遊離した記号的労働が際限なく増殖していく。

だが、この事態をたんなる疎外の論理で片づけることはできない。むしろ重要なのは、このような記号的労働の自己増殖が、後期資本主義における価値形成の本質的な様態となっているという事実である。現代における虚業は、もはや使用価値でも交換価値でもなく、たんなる記号的差異の体系のなかでその「価値」を獲得する。

それが、この記号的価値のシステムが、けっして単純な虚構としてだけでは片づけられないという理由である。これらの労働は、主体の欲望を構造化する象徴的秩序として作動している。つまり、虚業は、たんなる無駄な仕事なのではなく、後期資本主義における主体形成の本質的な装置として機能しているのだ。

この特徴は、まさに「価値創造からの逃避」を可能にする労働主体の構築にある。かつての日本の製造業において、労働主体は具体的な生産物に対する責任と技術的な深化を通じて形成されていた。工場の技術者は、品質の向上や生産性の改善という具体的な課題に直面することで、自己を形成していった。それは時に過酷であり、市場や現実からの容赦ない評価にさらされる経験だった。
しかし、現代の主体形成装置としての虚業は、この価値創造に伴う諸々のストレスから主体を保護することを可能にする。

この現象を理解する上で、ジャン・ボードリヤールの消費社会論は重要な示唆を与えてくれる。

ボードリヤールによれば、後期資本主義社会における消費は、もはやモノそれ自体の使用価値や交換価値のためではなく、記号的価値のために行われる。この視点は、現代の労働の本質を理解する上でも示唆的である。現代の労働主体は、実体的な価値の生産者としてではなく、記号的価値の操作者として存在している。
会議室で交わされる言葉、提出される報告書、プレゼンテーションのスライド――これらはすべて、実体的な指示対象を持たない純粋な記号として機能している。重要なのは、これらの記号が実際に何かを意味しているかどうかではなく、組織という閉じた体系の中で適切に循環しているかどうかである。
この記号の循環は、それ自体が自己目的化する。一つの会議は次の会議を生み、一つの報告書は次の報告書を要請する。この連鎖において、当初の目的や意図は徐々に希薄化し、最終的には完全に消失する。残るのは記号の純粋な運動だけである。

ボードリヤールが指摘したように、このような記号的実践は、それ自体が一つの完結した価値体系を形成する。それは実体的な価値生産から完全に切り離されているにもかかわらず、あるいはむしろ切り離されているがゆえに、より強固な自律性を獲得する。現代の労働主体は、この自己完結的な記号体系の中で、自らのアイデンティティを形成していく。
この視点から見ると、現代の組織における評価システムの特異性も理解できる。「コミュニケーション能力」や「リーダーシップ」といった評価指標は、具体的な成果とは無関係に機能する純粋な記号である。それらは互いに参照し合い、意味を生成し続けるが、決して実体的な価値との接点を持つことはない。

より根本的には、この構造が主体の欲望そのものを規定している点に注目する必要がある。労働主体は、記号的な価値の獲得それ自体を目的として行動するようになる。昇進や評価、組織内での地位といった記号的価値が、具体的な価値創造の喜びに取って代わる。
しかし、ここで重要なのは、この記号的価値のシステムが決して単なる虚構として片付けられない点である。それは現実の社会システムを動かし、人々の生活を規定する強力な力として作用している。その意味で、これは「シミュレーション」ではなく、むしろ現代社会における最も実質的な現実として理解されるべきものなのである。

この構造は、必然的に深い矛盾を内包することになる。なぜなら、いかに精緻な記号体系といえども、それを支える何らかの実体的な基盤を必要とするからだ。現代社会が直面している生産性の低下や技術革新の停滞は、この矛盾の現れとして理解することができる。

このような労働主体の在り方は、かつての「疎外」という概念では十分に捉えることができない。マルクスが描いた疎外された労働者は、自らの労働の生産物から切り離され、その過程で主体性を喪失していった。しかし現代の労働主体は、むしろ過剰な主体性を帯びている。彼らは自らの意思で記号的価値の生産に没入し、その過程で独特の充足を得ようとする。

例えば、一見無意味に思える長時間の会議に熱心に参加し、細部にこだわった報告書の作成に没頭する姿。それは決して強制された行為ではない。むしろ主体は、これらの活動の中に自己実現の可能性を見出そうとしている。PowerPointのスライドの完璧な体裁、説得力のある図表の作成、洗練された表現の選択――これらの実践は、ある種の創造的活動として体験される。

より興味深いのは、多くの労働主体が自らの活動の虚構性を認識しながらも、なおそれに従事し続けるという事実である。深夜のオフィスで最後の資料チェックを行う社員は、その作業の本質的な無意味さを理解している。しかし同時に、その完成度を高めることに独特の充実感を見出している。これは単なる虚偽意識や自己欺瞞として片付けることのできない、現代の労働がはらむ本質的な両義性である。

このような主体性の在り方は、実は現代社会の消費行動とパラレルな関係にある。消費者は商品の使用価値を求めて消費するのではなく、その商品が持つ記号的価値、つまりブランドやステータス、ライフスタイルの表現としての価値を求めて消費する。同様に、現代の労働主体は実体的な価値生産ではなく、組織内での評価や地位、キャリアといった記号的価値の獲得を目指して労働する。

しかし、この記号的価値の追求には終わりがない。より良い評価を得るためには、より多くの会議に参加し、より多くの報告書を作成し、より多くのプレゼンテーションを行わなければならない。そしてそれらの活動は、さらなる活動を生み出していく。この永続的な運動の中で、主体は常に「もう少し」という欲望に駆り立てられ続ける。

ここで重要なのは、この終わりなき記号的実践が、主体に特有の満足を与えると同時に、深い不安をも生み出すという点である。なぜなら、記号的価値はつねに他者の承認に依存しており、決して自己完結的な充足をもたらすことができないからだ。

このような構造の中では、労働主体は常に二重の意識を持つことを強いられる。一方では記号的価値の体系に全面的に関与しながら、他方ではその虚構性を意識せざるを得ない。この分裂した意識は、しかし、現代の労働主体の本質的な特徴として理解される必要がある。それは克服されるべき病理というよりも、現代社会を生きる都市労働者たちの条件そのものなのである。

続く


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