いじわるな言い方をやめた、私の選択
先日、世の中には実態を違う解釈へ誘導する“いじわるな言葉”があって、
しれっと、公然と使われているとお話ししました
例えば「育児ストレス」なら、
まるで育児がストレスであるかのような、
子どもが悪いような、
子どもを産み育てることがストレスにつながるかのように思わせる節があり、
「発達障害」であれば、
まるでその子に障害があるかのように思わせる、ミスリード性がある
なんだか実務的で、人を相手にした言葉ではないようで、その言葉が影響することに関心を持たない言い方だな...
あたかも問題はその人たちで、その人たちだけのものですよ、とでも言いたげな、心ない言葉だなぁ... と、書いた後で思った
「害」と呼ぶ、ラベリングが気にくわない
私は、子どもたちのことを「害」と呼びたくないし、身体的はハンデのある人たちのことも「害」と呼びたくない。他にも精神的にとか、発達がゆっくりであるとか、
社会的に見て“弱い”とされている人たちのことを「害」と呼びたくない。
なんか違う。
前々から違和感があった。
しっくりこない。
というか、嫌だ。 普通に嫌だ。
私は、私自身として、その言い方が気にくわない。
むしろちょっと怒りすら感じる。
私は今発達障害と言われている子どもたちに、そんな言葉を使いたくないし、自分で自分のことを「害」を付けて呼ばせたくもない。
だって、なんか悲しくない?
上のnoteでも書きましたが、現代社会がどんな人でもスムーズに生きやすい場であれば、そこに「障害」という言葉はでてこないはず。
「障害」は、その人たちと社会との間にあるものであって、その人自体を差す用語ではない。
社会の未発達性から出ている言葉なのに、とうの社会とは関係ないように思わせる言葉たち
もう社会の未発達性の犠牲になるのはやめていいんじゃないかな?
変なラベルを貼るのも、貼られるのも、
もうやめようよ。
そして気づいた。
あれ?それ、やめていいんじゃない?
嫌ならその言い方、しなかったらいいじゃん。
私の選択
そこで、私はこうすることにした。
育児ストレス → 育児下の社会的ストレス
発達障害 → 発達特性
と言い換えることにした。
もちろんこれは私の選択なので、他の人がどう言おうが、社会がどう言おうが、別の話。
私がどんな言い方を選択するかは、
私に決定権のあることだから、
私のことは私が決めていいでしょう?
私のことなんだから。
なら、変えようっと!
そんな軽やかな判断であります。
「個性」とは違う「特性」
よく「個性」という言い方をする場合もあるけど、私は「個性」より「特性」の方がしっくりくる。「個性」とは、性格が優しいとか冷静、運動の成績が良いとか勉強の方が好きとか、そんなある一定の共通した上にある言葉
身体的にも不自由なく、他の面においても、何ら問題がない、いわゆる“普通の状態”であるという前提のもと、使われる言葉
そんなイメージがある
(あくまで私の中だけの話)
でもそうではない、その共通する“普通”すら同一条件ではない場合は「特性」の方がしっくりくる気がする。“普通”に対して特異であることに変わりはないのだから。
事故で片脚を失った場合は、片脚がない“個性”ではなく、片足がない“特性“。
その特性を持った状態。
生活する上で、
誰かの助けを必要とするかしないか、
これが私の中での「個性」と「特性」の線引きである。
困るものは困る。できないことはできない。それは、恥ずかしいことでも何でもなく、そうであるという事実があるだけなのだから、普通に困ることをサポートしてもらえばいい。
変に甘えるのは違うけれど、負い目を感じながら生きる窮屈な思いはしなくていい。事実を事実として受け止めながら、よりスムーズに生活できる方法をお互いに模索していけばいい。
何しろ「害」という言い方は、その人の中にある内側の言葉ではなく、その人と社会の間にある外側の言葉なのだから、気負わず使える言葉ならいいのだ。
「特性」に代わる良い言い方があれば、迷わずそちらに乗り換える。
そんな軽やかな選択であります。
ぎゅーっと握りしめることなく、
普通に、普通のこととして、使っていきます。(私はね。)
これを読んだあなたがどんな言い方を選択しても、それは自由です。
それに対して私がどうこう言うことでもありません。
ただ、ここまで読んでくれたなら、
今日書いたことに限らず、
あなたもあなたの判断で納得できる選択をしながら、生きていってくれたら嬉しいです