釣鐘じっくり読書会#03『経験と教育』(ジョン・デューイ著)を読み終えて
まえがき
私たちは、コロナ前から、ABD(アクティブ・ブック・ダイアローグ)と言う方法で読書する読書会をリアルとオンラインで開催してきました。その名称が「TSURIGANE読書会」。ABDの利点は、1冊を分担することで、比較的短い時間で、サマリ・プレゼン・対話などを通じて深い学びを得ることができる、というものです。
しかし、本のなかには、じっくり時間を掛けて読みたいものもあります。また、そうしないといけない本もあると思います。「釣鐘じっくり読書会」では、そのような本を選んで、数か月かけてじっくり読み進めるという方法で実施します。今回は「釣鐘じっくり読書会」として3冊目となる『経験と教育』(ジョン・デューイ著)を取り上げました。私はこの本をかなり以前に購入しましたが、最後まで読めずにそのままになっていました。この本は、文庫・大文字版で150頁程度、しかし、ひとり読了できない本。そして、この読書会に登場することになりました。今回は、私含め8名が参加で、教職及び学校関係者が4名、その以外が4名という構成です。
”「アウトプット」するまでが「インプット」だ!”(by 佐渡島庸平氏)を合言葉に読了後にエッセイを書いています(希望者)。各参加者の視点で切り出した『経験と教育』の”エッセンス”とそこからの”学び”を、少しでも読んでもらえると嬉しく思います。
「『経験と教育』を読んで」
木村友紀
今回取り上げられたのは教育をテーマとした「経験と教育」という書籍でした。ジョン・デューイによって書かれ、教育哲学について述べられた本です。150ページ程度の薄い本ではあるものの、侮ることなかれ!内容は極めて難解であり、挫折者は多数あるとのこと。一冊を読みきるにはそれなりの覚悟が必要と思われます。幸いなことに、今回の読書会には、現役の教師の方が多数参加されていらっしゃいまして、それぞれの立場から「ああではないか」「こうではないか」と、現場の視点からご意見を頂きましたので、私もそれを基に理解を深めることができ、何とか最後まで読み通すことができました。私はこれまでにいろいろな本を読んでおり、その中には優しい本もあれば、難しい本もありました。難しい本を読んでいると、なかなか頭に入ってこないので、途中で「あとがき」を読んでしまうことがあるのですが、今回もその例に倣って「あとがき」を読んでみたのですが、まぁ見事に何のことが書いているのか分かりませんでした(笑)仕方がないので、諦めまして、また前から順番に呼んでいったわけですが、最後まで読み進めて初めて「あとがき」の意味が分かるようになりましたね。
まぁ難しい内容でした。何が難しかったのかということを考えると、やはり内容が抽象的な内容で分析されて、述べられているのにすぎず、具体的なことというのはほとんど書かれていないということにあるのではないかと思います。したがって、デューイは「ここでは何のことを言っているのか?」という議論が読書会でもよく起こりました。しかしながら、デューイのメッセージとしては、個別具体的な実現内容というのは、現場の教師や教育研究者などが現場の実態に即して考えるべきことであり、自分はあくまでも教育哲学・原理について言及をしているにすぎないのだということも書かれています。確かにその考えはわかります。具体的なことを書いてしまうと、その時代が変わってしまうことにより、ツールや手段が変容してしまうことになり、時代錯誤に陥ってしまうリスクもあるでしょう。ただ、ニュアンスとしてどこまでの範囲が期待されているのかということを理解するのには大変苦労をしたものです。
デューイは、伝統的な教育と進歩的な教育とを対比しており、その割合として伝統的な教育を批判している傾向にあります。その理由としては、伝統的な教育は生徒の経験をないがしろにしているからであるというのがポイントでしょう。ただし、そうであるからといって、進歩的な教育ばかりに注力していてもよろしくはなく、両者のバランスをとってより高次な教育を目指すのが良いということを提案されているのだと思います。現実の学校というのはデューイの理想と離れているところもあるかとは思うのですが、こうした教育哲学書をベースに教育のあり方を見直すというのは、一つの検証材料になりうるのではないかと思わされた一冊でした。
「デューイの考えた理想の教育」
~ジョン・デューイ『経験と教育』を釣鐘じっくり読書会で読んで
さとやん:高橋聡
どうもこんにちは、さとやんと申します。釣鐘じっくり読書会が立ち上がってからほぼ毎回、参加させていただいています。
1冊目は野中郁次郎先生の『ワイズ・カンパニー』、2冊目はセンゲの『学習する組織』を読んできた釣鐘じっくり読書会でしたが、今回取り上げる3冊目はアメリカのプラグマティストで教育者であるジョン・デューイが書いた『経験と教育』という本です。
ここでデューイが本書で伝えたかったであろうメッセージをぼくなりに自分の解釈に寄せて、記していきたいと思います。全く私見を述べたものですが、本書の受け捉え方の一例となって参考になる部分もあるかもしれません。
デューイは本書で何を言いたかったのでしょうか。さまざまな教育上での懸念点を取り上げ、かなり慎重に、それらを検討していきます。ただしデューイはそれらの答えを直接われわれに示してくれるわけではありません。つまり本書全体を通して、問題点がどこかは触れているんですけども、その問題点の考察はデューイをやってくれているのを参考にして、教育者それぞれが自分なりの結論を出しなさい、というのが本書の特徴といっていいでしょう。直接的に答えを明示せず、間接的に遠回りかもしれないけど、それぞれが考えるのが一番大事だ、とデューイは考えていたのではないでしょうか。
まず、教育者、つまり教師となる人が能動的に考えて授業計画や教材、生徒のことなどを考慮して授業をしないといけない、とデューイは言っています。これは当然ですが、かといって用意した授業計画のまま進めるだけじゃなくて、生徒などの反応を見ながら臨機応変に伝える方法や内容を変えることもまた大事だ、とデューイはいいます。
教師は能動的に考えないといけないが、そこで立てた計画にばかり無理に気を取られすぎて生徒をおろそかにしてはいけない、とデューイはいうのです。むしろ計画通り行かずに、求めていることは常に生徒たちの環境や家族構成によって変わるかもしれません。全く関係ないことを言い続けてももちろんだめですが、本筋をずれない程度でそうしたクラスの環境で求められるべき最善のことはなにか、ということを常に考えながら授業に臨むのが大事です。
教師が生徒に受動的な教育を与えることを続けていくと、生徒はそれをこなすだけの存在になってしまうでしょう。能動性の押しつけはよくないわけです。だからこそそのときどきに最も適した授業を提供することが大事になるのです。
そうしたことも含めて、教師は常に生徒たちのことを考えて、授業を行う必要があるのです。自分のために、たとえば自分の人気や評価のために、授業を考えたりするのは邪道なのです。本当の教師は、生徒の過去、現在、未来をすべて総合的に勘案して、その生徒たちが最も能動的に学ぶことのできる環境をつくることが責務だ、とデューイは言いたいんだと思います。
これは言うことは簡単にできるけれども、実行するのはむずかしいことでしょう。しかし教師は常にこうしたことを志向して教育現場に臨む必要があるのは確かでしょう。
デューイは序文で”教育哲学の役割を定式化することが緊要な課題となってくる”と言っております。この本は、具体的な方法についての定式化には一切触れてはいないのです。
なぜでしょうか。それはデューイ自身が教育者たちにこれらの考えを用意するのではなく、教育者が能動的に自分自身で考える機会をぜひもってほしいから、答えを与えたりすることは決してしないのでしょう。仮に正しいものであっても、与えられた答えに主体的な教育を行う取り組みや姿勢は全くありません。だからこそ、デューイは教育上の課題や懸念点は伝えますが、具体的な解決策については一切触れないのです。
言ってみれば、本書は教育と教育哲学についての分解されたフレームワークであり、教師はそのフレームワークを自分で組み立てて教育の土台としないといけないのでしょう。
主体的な学びは人を成長させます。デューイが意図するように、主体的に教育を用意する教育者と主体的に学びを受ける経験をする生徒がそろったとき、デューイの考える真の教育は果たされるのでしょう。
「『経験と教育』ジョン・デューイ著 を読んで」
かまさん
日本において教育に携わるなかで「総合的学習」「アクティブラーニング」といった言葉をよく耳にする。それら多くは、ジョン・デューイ著『経験と教育』が示す理論をベースにしているものが多い。同書が「現行の総合的学習の唯一の哲学的理論書である」と述べる学者もいる。しかし、実際の現場で、教育に関わる人たちが本書に示されている内容をどれだけ十分に理解して実践しているだろうか。本書を読み終えて、ふと自分の頭に浮かんだ疑問である。
教育について議論されるとき、「伝統的教育」と「進歩主義的教育」を対立させる形で説明されがちであるが、デューイは双方を比較しながらも、どちらかの「主義」に寄って立つことからは一線を画し、真に「『教育』の名に値するものは何であるか」を常に念頭に置きながら、極力例外の入り込む余地を残さないよう緻密に慎重に理論を展開している。それゆえ、デューイの文章は、一文の中に多くの条件節が組み込まれ複雑に構成されていることから、読者にとって(少なくとも私にとっては)非常に難解に映り、デューイの意図を読み解き、理解するには、目を皿のようにして読み込んでいく必要があった。読了後もすべてを十分に理解したとは言い難い。しかし、ひとりではおそらく挫折したであろう難解な本書を「釣鐘じっくり読書会」のメンバーとともに読み解くことで、次第にデューイの意図することが輪郭を帯びて掴めるようになり、理解が深まっていくことを実感できた、この学び合う時間は私にとって大変貴重で得難い機会であった。
本書を読んで自分なりに掴んだ内容をまとめ、学び合う中で得た気づきを記していく。デューイは、過去に作り出された知識や技能を一方的に教師が伝承していくだけの「伝統的教育」と訣別し、子どもの「経験」の中に教材を発見し教育に取り入れるための実行可能な方途を示唆するとともに、その困難さも同時に示し、現場の教師に知的努力を厳しく求めている。また、デューイは「進歩主義的教育」に可能性を見出しながらも、しばしば主張される「教師の指導力は生徒の主体的な経験学習にそぐわないものとして問われない」といった安易な誤解を厳しく非難している。そのうえで「生徒の主体的な学びは教師の積極的な指導なくしては成り立たない」という明確なメッセージを示している。そのために、「経験」について理論の必要性を説き、「教育的な経験」と「非教育的な経験」の基準を考察し、「連続性」と「相互作用」こそが経験の教育的意義と価値をはかる尺度であることを示している。そして、「社会的統制」と「個人の自由」について考察し、社会と学習者個人、双方の目的を達成するための教育は「経験」に基礎づけられなければならないという原理を示し、そのための教材をいかに「進歩主義的に組織化」していくかについて言及している。生徒は科学的な教材に引き合わされるべきであり、それらの教材が持つ事実や法則が、生徒が経験する日常生活に馴染んだ形で応用できるよう、教師によって手ほどきされるべきだと述べている。デューイは、教育の本質的な問題について考察し、教育における「経験」の哲学の必要性を示し、教師には科学的方法を用いながら献身的に生徒に働きかけていくよう求めている。
冒頭の疑問は、「総合的学習」であれ「アクティブラーニング」であれ、デューイの理論の本質を十分に看取しないまま用いられているのではないかという点にある。「主体的な学び」がそれらの根底にあるにも関わらず、例えば、将来のある時点(例えば就職活動など)で役に立つであろうという理由で知識やテクニックを一方的に教えるようなことが行われていないか。学習の目的が「個人的な利益」に矮小化されず、「社会全体の利益」に寄与するよう昇華されているか。私たちが生きる社会に存在する問題を単純化、もしくは二項対立化して議論させていないか。学校で育成されるべき学力とは何かとデューイに問うなら何ら躊躇うことなく「問題を見つけ出し、問題を解決する創造的な能力である」と応えるに違いないと述べる学者もいるが、これだけ緻密に慎重に考察を重ねられた理論をそこまで単純化してしまうことにも違和感を覚える。ベースとなる理論にも関わらず、デューイが提唱する「経験と教育」への理解が十分とは言い難い場面に多く遭遇する。生徒一人一人にとって教育的価値のある経験とは何かを注意深く配慮し、その目的が個人的価値に留まらず、社会的価値につながるよう発展させられるか。80年以上前に発表された論考だが、教育に関わる者がこれらの点に真摯に向き合うことの重要性を現代にも十分通用する形で様々な点から示唆している。
「デューイに学ぶ教師としての態度」
たにだみお
ジョン・デューイの『経験と教育』はあらゆるところで引用され、総合的な探究の時間やプロジェクト型学習を語る上で必読の書として掲げられている。しかし、私自身、引用に触れたり、必要な箇所とその前後を拾い読みしたりするだけで、「実は精読したことはないんですよね・・・」と小さな声で遠慮がちに告白しなければならない気まずさを何度も経験してきた。講談社学術文庫は字も大きく、ページ数も少ない。しかし、手に取って読み始めると、途端にわけがわからなくなるのである。(同じような経験をしている学校の先生が結構たくさんいるのではないだろうか・・・。)そんな折、おとんが主宰する「釣鐘じっくり読書会」でこの教育学の大名著を扱うということを知り、「何がなんでもこの機会に対話の力に後押ししてもらいながら精読をする!」という強い気持ちで申し込んだ。
『経験と教育』は、伝統主義(traditionalism)と進歩主義(progressivism)の対立を乗り越え、教育とは何かを明らかにすることを目指したデューイ後期の教育論である。伝統的な教科の知識の注入(外部からの形成)か、子ども中心の自由な活動(内部からの発達)かという、「あれかこれか」の議論を避け、教科の学びと子どもの経験は対立するものではなく、連続している「連続体」であることをデューイは説いた。また、経験は外的条件と内的条件の相互作用によって成り立っており、一人ひとりの人間が「世界のなかで生き」ることであり、「状況の連続のなかに生きていること」であると述べている。
この提言を踏まえて、デューイは教師の役割を、相互作用により常に再構成されていく経験の連続において、生徒個人の欲求や能力(興味、関心、適性も)を理解し、成長の糧になるような客観的環境を整えていくことであると考えている。しかし、こうして教師によって計画された学習の過程の中で、生徒個人が自分自身の魂を失い、学んだことの価値を批評できず、また適用したいという願望を持たないならば、それは教育による搾取だと言えるであろう。そこで、生徒自身が目的の構成に積極的に参加できなければならないのである。真の目的は、まず衝動から起こり、それが阻まれると欲望が生まれる。しかし、そのどちらも教育上の目的にはならないため、子どもの自由な活動に任せきりの状況も教育的とは言えない。教育の目的を構成するには、客観的な条件と環境の観察と、過去の似たような数々の状況についての知識が必要である。その上で、経験の意味を理解するために、観察と過去についての知識を結びつける判断力を培う必要がある。この一連の流れはじっくり時間をかけるべきであるので、初期の衝動や欲望を自制し、知的な思考、つまり振り返りを通じて可能になるものである。教師の特権を乱用して、教師の目的に子ども強制的に追い込んではならない(伝統主義的教育)が、その一方で、教師による計画を子どもから全面的に撤退させればよい(進歩主義的教育)というものでもない。目的を形成する過程は、一方的な指図やわがままではなく、教師と子どもによる協働作業であるべきだとデューイは説いているのだと私は理解した。
では、教師としての私は明日からどうありたいか。少なくとも、どんな心持ちで学校でやっていきたいか。「教師は受け取りもすればあたえもすることをためらうものであってはならない。」というデューイの言葉が胸に刺さっている。大人であり、教育の現場である程度の年月を過ごしてきた私は、状況を観察し、先を見通して計画し、その手段を一つ一つ実行していくことに関しては、明らかに子どもたちよりも長けている。しかし、目の前の一人ひとりの子どもはそれぞれに自分の世界を持っていて、私が知らない宝や、やってのけることもできないような力に満ちている。その子どもたちの興味、関心、能力を丁寧に見定め、共に経験の連続に立ち会い、対話を通じて、より大きな明るい目的をつくること、そして、それに向かって共に経験を積み重ねることで、子ども一人ひとりだけでなく、私という大人も社会も成長していけるのだということを信じること。これが現時点で私がデューイから学び、教師としての態度として改めて心に留めたことである。
「『経験と教育』を読んで」
かねこ
私は教員ではなく、企業の人事関連の職に就いているわけでもありませんが、この本を教育に携わる方から勧められていたこともあり、今回取り上げさせていただきました。教師と生徒の関係性で書かれている本ですが、職場やプライベートな学びの場でも、応用できるエッセンスが詰まっています。
組織で働く一社会人として、この本から考え続けていきたいことをいくつか述べたいと思います。
この本は、いわゆる『過去の知識や技能を伝達する「伝統的教育」が良くなく、経験がその後の経験に影響を及ぼすという活動を通しての学習である「進歩主義教育」が良い』という二項対立で述べられているわけではありません。何でも経験をさせれば良いのではなく、「質的経験を整える」ことが教育者に課せられた仕事であると書かれていました。
「経験の重要性を強調しただけでは十分ではないし、またその経験の活動性を強調したとしても、それだけでは十分ではない。」つまり、教育者が「質的経験」の内容を理解し、外部的な支配者あるいは独裁者としての立場を失って、集団の活動の指導者としての立場をとることが出来るようになることが求められています。
本に書かれていた内容を抜粋すると、
「教師は職権乱用ではなく自分が教えている生徒の能力、要求、過去の経験について、知的に気づいていなければならない。」
「集団の成員である生徒が役割を分担し、一つの全体へと更なる貢献がなされ、組織立てられていくような示唆によって、その示唆を教育の計画や企画にまで発展させようとする。」
「学習者の内面で新しい考え方が形成され産出されるために、積極的な探究を生じさせる。…やがて新しい問題が提示されてくる更なる経験の基礎となる。」
「目的が社会的知性の過程を通じて成長し、形成される。」
と書かれており、どのように「質的経験」に導けば良いかを考えさせられます。
教師は、生徒が経験するにあたり、生徒の衝動を計画へ練り上げて目的へと昇華させる助言を行い、次の活動へ繋がって行く手助けをする役割を担っています。
職場や個人の活動に置き換えても、自分の知識や技能を伝達するだけでは真の理解者は現れにくく、同僚や参加者を巻き込みながら一緒に経験を積んでいくことで、集団として活動できるようになると感じています。ある長期プログラムで、私は受講生の学びをより深めるためのお手伝いをする立場で関わらせていただいており、この本で書かれている教師/生徒という立場以外からでも質的経験に導くことが出来る役割があると思います。学校教育が全てではなく、大人の年代の学びにも「質的」な要素を取り入れられたらと考え直すきっかけとなりました。
「『経験と教育』を読み終えて、”教育”について考えてみた」
おとん:谷芳明
今回の本『経験と教育』の内容については、他の参加者の方が、それぞれが気になる言葉を拾い上げて、自分なりの理解を含めて言語化しています。各参加者のアウトプットであるこのnoteに掲載したエッセイが、この本のなかで語られる教育方法や教育哲学を大切なものまとめたものではないかと感じています。
1冊の本をもとに、各自が自習し、当番の方がサマリをまとめ、参加者それぞれも自分なりの理解と現状への課題を持って、みんなと対話すること。これこそが、アクティブラーニングのひとつの形態なのではと思いました。ここに集うメンバーは、自分のやるべきことを自覚して行動できる人たちで、自分の置かれている環境での経験を、本という教材が伝えようする意味を理解し、経験と融合して自分の考えとして昇華できたのでしょう。この場に”教師役”という立場の人が居なくても。
しかし、現実の学校教育のなかにおいて、特に初等・中等教育における「総合学習」や「探求」と言われる授業のなかで、それぞれの子どもたちが、自らの衝動をもとに行動し、そして経験からの学びに結び着くようにするには教師の役割は重要となることは理解できます。伝統主義的教育スタイルの教師の方がすぐに進歩主義的教育に変身できるでしょうか?そのためには、教師の方も、ある時は生徒として、また別の時は教師として、この教育方法を経験すること(ロールプレイ)することで、この教育方法の本当の価値を理解できるようにすることが必要だと思います。現実は色々ハードルがあることだと思いますが。
一方、実際の社会ではどうでしょうか?日本の社会人は世界で一番学ばないとの統計が報告されています。30歳以上で教育機関で学ぶ人の割合という調査で、フィンランド・ノルウェーは約8%、日本は1.6%です。この差は、なんでしょう。北欧は、アクティブラーニングでも先進国です。経験をもとにする教育を経て、社会へ進んだ人たちは、新たな経験をする場を求めて学ぶ姿勢が根底にあるのではないでしょうか?これは私の私見ですが、いま徐々に進んできている、中等教育の「探求」授業や大学の「PBL」に取り組んだ人たちは、社会人になっても学び続ける人になるのではないかと予想しています。
最後に、「経験と教育」に戻ります。この本の中では、”伝統的教育”が悪で、”進歩主義的教育”が善という言い方はしていません。一貫して相対化した表現で述べていきます。絶対化した言い方、絶対というものは存在しないという考えが根本にあるのだと思います。つまり、これが西洋(キリスト教)でも基本的なものの考え方だと思います。しかし、私たちが読んだときに、わかり難さを感じる根拠にもなっているように思います。
私が、印象深かった一文を抜き書きして終わりにしたいと思います。「民主的な社会の取り決めは、非民主的ないし反民主的な社会生活の形態よりも、一般的に広く親しく享受されるという信念、すなわちそれは人間経験の一段とすぐれた質を増進する信念に最終的に帰結する。」
時折、読み返す必要と価値がある1冊となりました。
参考
釣鐘じっくり読書会の標準的なタイムテーブルを紹介します。
<タイムテーブル>
① チェックイン(ひとり2分) 20:05-20:15
② サマリ 20:15-20:30
Q&A 20:30-20:35
③ 対話 20:35-21:20
・最初ひとまわり 3分/人
・後は自由に対話
④ 振り返り・チェックアウト 21:20-21:30
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☆月2回開催 1回1時間半+放課後タイム(自由参加)
☆各回2章ずつ(本により変わる)
☆事前に対象範囲を決め、その日の担当はサマリ作成。それ以外も全員事前に読むことが前提。
~釣鐘じっくり読書会の足跡~
謝辞
今回の読書会(『経験と教育』ジョン・デューイ著)参加8名の方に参加いただきありがとうございました。そのうち6名の方がエッセイを提出してくださいました。あとの方もお仕事等で遅れての提出があるかもしれません。そのときは、追加掲載いたします。
釣鐘じっくり読書会 おとん(谷芳明)
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