山小屋本の紹介④『黒部の山賊』
山小屋本としては恐らく最も著名な作品の一つが『黒部の山賊』です。
以前紹介した3冊と比べると、時代はひと昔前、太平洋戦争の終戦まで遡ります。
他の山小屋本はマガジンから↓
舞台となる山域は北アルプス最深部の黒部源流。かの大工事が行われた黒四ダムに溜まっている水の、最初の一滴が生まれる場所です。
黒部源流地域は一口に北アルプスと言っても
穂高や槍ヶ岳のような山ではなく、
どちらかというと秘境というほうが合っているでしょうか。
実際に「山と高原地図」において舞台となる雲ノ平は日本最後の秘境と書かれています。
それだけ黒部源流は外界から隔絶された遠い場所です。
登山口から黒部源流地域の入口、三俣山荘までは最短で9時間。
慣れた人でなければ辿り着くまでに1泊は必要です。
さらに雲ノ平までは+3時間はかかります。
雲ノ平山荘で泊まろうと思ったら、
山中3泊はするつもりで登らないといけない、
それくらい奥地なのです。
下手に海外に行くより遠い。
今でこそ登山道も整備され、登山装備も充実し、多くの登山者がある程度安全に目指せる場所となりましたが、
話に描かれる黎明期の黒部源流はまだまだ未知の世界。
題名の『黒部の山賊』の山賊はこの地域で狩猟を行なっていた猟師のことですが、
あまりにも未知の領域が故に
噂ばなしが一人歩きして
黒部源流には恐ろしい山賊がいるということになっていたようです。
この本の筆者はこの黒部源流地域で山小屋を始めた伊藤正一さん。
正一さんは三俣山荘、雲ノ平山荘という山小屋を運営し、この黒部源流へと至る伊藤新道という道を切り開いた方。
(この伊藤新道は災害により廃道となっていましたが、息子の伊藤圭さんが復活させました。
最近の北アルプス界隈でもホットな話題です)
ヘリコプターが無い時代に北アルプス最深部の開拓を行ったことを考えると、途方もない挑戦を行った方と言えます。
物語の序盤は終戦後に伊藤正一さんが三俣山荘のオーナーになったところから始まります。
そこでの山賊たちとの出会いと生活。
凶悪な山賊と聞いて乗り込んでいったところ、実際には紳士で愉快な猟師たち。
山では切っても切れないクマとの関わり、
時にクマを撃ち、時に襲われ、時には飼ってみたり。
山賊たちのクマとの関わり方は、クマのいる山域で働くものとして非常に参考になります。
そして河童の噂、「オーイ」と呼んでくるバケモノの話、神隠し、
今となっては信じ難い話が盛りだくさん。
ただ正一さんご自身は元々、飛行機のエンジニアであったことから完全に理系の方、
そんな方が奇々怪々な話を語るのですから、
本当にいたのかも…
そう思ってしまいます。
他には遭難事故の話なども。
これは宮田八郎さんの『穂高小屋番レスキュー日記』と比べると、
あまりにもあっけらかんと遭難の話を書くので、
当時の山では人が亡くなるのは、いかに日常的であったかということを感じる内容です。
三俣山荘や雲ノ平山荘、伊藤新道の建築の話。
ヘリコプターが無いので全て人力で荷上げ。
そして人力で奥地まで運ぶために作った登山道の伊藤新道。
私は40kgくらいでヒーヒーですが、
当時の人はその倍くらいは平気で担いでいたのではないでしょうか。
登山文化を作り支えてきた先人たちの偉業を知ることができます。
この本で書かれるのは「昔の話」ですが、
下界の昔の話と違うのは
山賊たちが暮らしていた当時と現代とで
建物の場所も景色も道もほとんど変わらないこと。
山賊が歩いて、
「オーイ」というバケモノの声が聞こえ、
河童が遊んでいたという、
黒部源流は今も変わらずそこにあります。
この本を読んでぜひ山賊たちが活躍した
黒部源流地域に足を運んでみてほしいです。
きっと本の世界に入り込んだような体験が待っているはずです。