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右とか左とか保守とかリベラルとか意味不明なので、私が考える新しい政治思想マップを作ってみた〜大西つねきの未来ビジョン

街頭演説をしていると、たまに「右なのか左なのか?」と聞いてくる人がいる。ただ、私に聞く人は皆無で、大抵チラシ配りをしてくれている人に聞いてくるのだが、聞かれた人は必ず当惑する。それはそうだ。私の思想はそんな単純な二元論には収まらないし、もはやその問いそのものが時代遅れなのだ。

右とか左とかいう概念は、多分30年以上前、80年代までの冷戦時代の遺物だ。一般的には右が保守、左が革新と言われているが、何が新しくて古いのか、両者にどれだけの違いがあるのか、極めて曖昧だ。例えば、左には共産主義や社会主義、無政府主義などが含まれるとされ、右には自由主義、国家主義、ファシズムなどが含まれているとされるが、自由主義とファシズムは矛盾するし、共産主義と無政府主義も全く相容れない。むしろ共産主義は国家的ファシズムに思えるし、自由主義の極論が無政府主義だとも言える。右の国家主義と左の共産主義も紙一重に思えるし、右のムッソリーニと左のスターリンが対極とも思えない。そもそも共産主義や社会主義の何が新しいというのか。

これだけわけのわからない概念を無理やり説明しようとするなら、恐らく共産主義は、100年以上前のロシア革命で国家という形を伴って台頭した時には新しかったということだろう。それに対し、自由主義こそが元からあった保守本流という主観的な見方が、右(保守)、左(革新)という対立軸を作ったと想像される(あくまでも想像)。そして30年前に冷戦が終わり、左の軸が消え去った時点で、その対立軸が意味を失い、空疎な枠組みとレッテルだけが残り、その隙間を別の概念で埋めてきたということではないか。だから当初は大きな政治経済体制の対立軸だったものが、今は保守(伝統的な価値観)v.s.革新(進歩的な価値観)という価値観の枠組みに変質し、人権や家族観が軸になってきたという、まあこれはあくまでも私の仮説だ。実際そうだったかどうかはわからないし、その経緯は重要ではない。

重要なのは、では今、80年代まであったような、大きな政治経済体制の軸が必要ないのかというと、実は全くそんなことはなくて、むしろそれが最も必要とされているということだ。明らかに資本主義、すなわち唯一残った右の軸のエンジンだった経済システムが機能不全を起こし、新たな政治経済体制が求められている中、それを全く示せていないのが日本の政党政治の大きな問題だ。そもそも名前からして、自由民主党とか共産党とか、古い対立軸の残骸でしかないことを示していて、そこには新しい時代を切り開くアイデアや、現状に対する問題意識は微塵も感じられない。もしそれがあれば、それを党名に反映するだろうし、党名もアップデートできない政党に、刻々と変わりゆく社会の舵取りなどできるはずがない。

政党とは言うまでもなく、思想ありきの存在だ。思想とは時代を切り開くアイデアの体系であり、大きな方向性を示すものだ。それなしには存在する意味もないし、何の役にも立たない。ただ、それには現状認識と問題意識が不可欠だ。現状認識とは、単に現状だけを見て得られるものではなく、過去の分析と未来へのビジョンがあって初めて、その全体像の中の相対的位置として把握され、問題意識も解決策もそこから生まれる。それが彼らには欠けているように見えるが、問題は彼らではなく我々だ。我々がそれを持てば、自分たちでそれに基づく政治勢力を作り、実行すれば彼らは必要なくなる。

ということで、そのビジョンを共有するために、私が考える政治思想マップを作ってみた(図下のリンクからPDFダウンロード可)。大事なのは軸だ。どんな行動原理が支配的に作用して世の中が動いているか、それを軸とした上で、軸上の対立概念を両端に取り、そこからの相対的位置によって現状を把握する。だから、何が今の政治経済体制の支配的な行動原理になっているか、その定義が的外れだと現状認識も的外れになってしまう。

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私はまず、政府の財政を横軸に取った。現在の日本政治経済の最大の停滞原因は、財政金融の仕組みをほとんどの政治家が理解していないことだ。お金の発行の仕組みすら理解していないため、政府の借金を悪と考えていて、財政規模を膨らませることができず、多くの人の生活が破壊されている。したがって、支配的な対立軸として、政府の大小を横軸に取った。もう一つの大きな問題はグローバル化だ。行き過ぎた金融資本主義と自由化された資本の移動で、常に世界で最も安い労働力と比べられ続け、コストカットと効率化の波に晒され、企業や集団の論理に個人が支配され、世界規模で画一化が進んでいる。これに対し、多様化、ローカル化、分権化、個の尊重という対立概念で縦軸を形成した。そして私が考える方向性は真ん中の赤い螺旋で示した。線の太さは政府の財政規模を表す。太い線は積極財政、細い線は緊縮財政ということだ。

さて、この中で現在地はどこか?私は水色の丸で囲った部分が大体の現在地だと考えている。新自由主義的な考え方の中、民営化、効率化で小さな政府を志向していた80年代が終わり、失われた30年の間にイヤイヤながらも財政規模は膨らみ、政府債務は増え、一方で大企業支配が進み、株主優先で株価は上がっても給与は上がらない状態。この中で既存の政党は何をしているかと言うと、点線の部分を右に拡大した図をご覧いただきたい。これはあくまでも私の感覚によるマッピングだが、どこも似たり寄ったりだ。問題は赤線の太さだ。すなわち、政府の財政規模、これを絞るという「緊縮財政」の考えが大きな壁となっている。特に与党に対峙し、新しい政策を提言すべき野党にとって。

ご存知の通り、立憲民主は消費税を8%に減税することすら渋っている。今だに財政再建派の野田元首相らが力を持ち、同じ主張を繰り返している(麻生財務大臣の例もあるから、わかっていてわざと緊縮を唱えているのかもしれない)。いずれにしてもそこを大きく方針転換しない限り、国民に有益な政策提言はできない。共産党も大差ない。消費税減税、廃止の考えはあるようだが、財政健全化を政策として掲げている限り、予算の組み換え論に終始し、財政規模の拡大にはつながらない。いずれにしても、借金は増やし続けなければならないという現代の金融システムを正しく理解し、この緊縮財政の壁を超えない限り、有効な働きはできないということだ。むしろ自民党の方が、安藤裕議員や西田昌司議員など、党内に財政金融を正しく理解している議員を抱え、一定割合の反緊縮派がいる分、面白い要素を抱えている。内部分裂でもしてくれればと思うのは私だけだろうか。

その他の党に関して言えば、国民民主はもう少し柔軟な考えをしているように見えるし、れいわに関しては明らかに積極財政派であり、既存政党の中では最も正しい方向性である。維新に関してはよくわからないが、今だに効率重視の新自由主義の延長に見えるのでこの位置のマッピングした。所々異論はあるかもしれないが、あくまでも私の主観で、それが論旨ではないのでとりあえずご勘弁いただきたい。

で、私の論旨は、このマップの中でどこにどう進むべきかということ。それが赤い螺旋で示してある。一見してわかる通り、それは直線ではない。なぜなら、今の状況を把握すれば、一筋縄ではいかないことが明らかだからだ。ちなみに最も行ってはいけない方向を先に述べておくと、右上の部分はとても危ない。全てが民営化され、効率化重視でグローバル化、画一化が進み、大きな多国籍企業だけが生き残る殺伐とした荒野。人間性の否定に他ならないと思う。

これに対し、私が志向しているのは右下。ただしここに至る道は左からの迂回だ。まずは右上へのプレッシャー、すなわち民営化、効率化、グローバル化によって干上がった社会に水を供給する必要がある。言うまでもなく、水とはお金だ。お金を配り、社会保障を拡充し、インフラの再公営化を進める。そのためには、当然財政規模を拡大し、一旦政府を大きくせざるを得ない(左に向かう)。そして、お金の発行の仕組みを、現状の信用創造(借金でお金を作る仕組み)から政府通貨発行(誰の借金でもないお金)に変え、ベーシックインカムの交付、各種税金を廃止する一方、法人税を上げ、組織と個人の力関係を逆転させる(下に向かう)。組織形態も集中型から分散型という流れの中で、地方分権を進め、中央政府の財政規模は縮小する。土地の公有化や国営ブロックチェーンによって不動産担保融資や送金手数料などの「銀行支配」を終わらせ、そのブロックチェーンを利用すれば、個人がお金を発行することも可能になる。例えば「ありがとう」と感謝された時に「ありがとうコイン」などを発行し、それを時間と共に腐らせるというような方法だ。そもそもお金というものは、実体価値の裏付けがあって初めて意味を持つものであり、それを生み出す個人が、その生産と同時に発行するは当然であり、それが時間と共に腐るのも自然なのである。最終的に価値そのものが多様化し、相対性が極まれば、価値の大小を計ることすら無意味となり、お金がいらない世界に移行すると私は考えている。同時にお金のみならず、所有や国家という概念も虚構であり、人類がエゴを手放して調和することを学べば、それらの虚構から脱却し、顔の見える範囲内でのコミュニティ自治に行き着くというのが私の思い描くビジョンだ。皆さんはどう思われるだろうか?

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ところで、ここまでは大きな政治経済体制を軸にした政治思想について書いたが、もう一つ、最近の保守、革新の軸となっている価値観の相違についても言及しておきたい。これも私の印象だが、最近どうも上図のような図式になっているように思える。時代の流れと共に価値観が変化したことによる新旧対立の構図だが、一つ私が感じているのは、保守の方が広く、境界線も曖昧なのに対して、革新の方が狭く、境界がはっきりしていそうだということだ。つまり、価値観の幅が狭く、許容性が低い感じ。だからポリティカル・コレクトネスに陥りやすいし、自分たちが正しいと信じているため、内輪もめも起きやすい。加えて、手厚い政府保障を求める一方で、緊縮財政という自己矛盾を抱えているから身動きが取れない。むしろ前述したように、保守の中の方が積極財政やMMT容認派を抱え、よほど革新に近い。これをそのまま保守=与党、革新=野党に当てはめると、その包摂性はそのまま数に反映し、永遠に革新には勝ち目があるとは思えない。

そして、今の革新の最も致命的欠陥は、時代の流れに乗っていないということだ。どうも彼らは価値観の違いが新しさであり、自分たちこそ先進、リベラルだと考えているようだが、私に言わせれば全く古いし、リベラルの意味を履き違えていると思う。自分たちの正しさを信じ、他の価値観を否定する時点で、彼らは全くリベラル(自由)ではない。真のリベラルとは、価値観の枠を飛び越えることだ。すなわち、どんな古い価値観だろうが、眉をひそめるような価値観だろうが、それはそれ、多様性を認めるというのが真のリベラルであり、時代はもうそちらへ向かっている。多くの人はすでに、正しさを振りかざした他人からの評価や支配にほとほと疲れ切っているのだ。今必要なのは真のリベラル、真の多様性だ。正しさも善悪も手放したその先に、初めて多様な価値観の共存がある。それなのに、正しい考えしか持ってはいけないというリベラル、しかも政治という最も忌避される枠組みの中にわざわざ入ろうという人がそれほどいるとは思えない。むしろ、真のリベラルはその枠の外にいて、そこに新しい旗が立つのを待っている、それが無党派層の無党派たる所以なのではないかと思う。

いずれにしても以上の図でわかることは、私は少なくとも既存の政党とは、現状認識も描くビジョンも全く違うということだ。どちらが良いとか正しいではなく、これは皆さんの選択であり、多くの人が共有するビジョンが現実化するというだけのことだ。だから、既存の政党はとりあえず置いておいて、同じビジョンをお持ちならどんどん共有しましょう、そうすれば実現しますよ、ということでこれをアップした。もしかしたら既存の政党の中にも、個人としては本当に自由な人もいるかもしれないので、そんな人は新しい旗作りに協力して欲しいと密かにメッセージを送りつつ、本稿終わりとする。

大西つねきホームページはこちら → http://www.tsune0024.jp/ YouTube動画も多数配信中 → https://www.youtube.com/user/tsune0024ch

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