自分で自分を愛するという違和感の答え
自分が自分に「してあげる」違和感
子育て中に頑張りすぎて
自分を追い詰めてしまっているお母さんに向け
「自分自身を労わりましょう」とか
「自分をもっと大切にしてあげて」
という表現で
「頑張り過ぎなくてもいいんだよ」
とアドバイスすることがよくある。
最近慣れてはきたものの
「自分で自分に対して○○をしてあげる」
というこの言い回しが
実はどうにもしっくりこなかった。
「頑張り過ぎないでいいよ」
は自然に聞こえるのに
「自分で自分を大事にしてあげて」
に感じる違和感。
自分で自分に何かを「してあげる」
ということが
やや「不自然」な感覚になる。
そんなことを考えていたとき
ふっと頭に浮かんだのが
「神や仏」の存在だった。
宗教の役割
自分で自分のことを
大切にしてあげる
許してあげる
それが難しいなら
自分以外の
もっと大いなるものに許しを乞えばいい。
自分で自分を愛することが難しくても
神や仏は
いつでもあなたを愛してくださるよ。
おー,これならしっくりくる!!
自分が自分にっていうのは
ちょっと気持ち悪いけど
神や仏にやってもらえるなら素直にできそう。
かくして
大昔の人々はこの世に宗教を誕生させ
それは世界中に広まったのでした。
なんて
軽い感じではないにしても
恐らく本質的なところからは
そんなにズレてはいないはず。
宗教というのは
度重なる戦争や疫病によって生じる
「死」への恐れや不安といった
猛烈なストレスから人を守るための
人類の偉大な発明だと思う。
だから
信仰の自由がなく
生活と宗教の距離感近かった時代に
自己肯定感が低くて悩む
みたいな人はほとんど
存在しなかったんじゃなかろうか。
日本人は諸外国と比べても
自己肯定感が低く自殺率もずば抜けて高い。
例えばキリスト教を信仰している人の多い
欧米諸国と比べたらそりゃあ違うよね。
その昔学生時代に
カウンセリングの授業での
教授の言葉が忘れられない。
「日本ではこの先も残念ながら
カウンセリングは流行らない。
なぜならカウンセリングの原型というのは
教会で人々が神に自分の罪を告白して
「ゆるし」を請うこと。
その点日本人は
罪を認めて楽になるよりも
深く反省したことを行動で示し、
ことと次第によっては
潔く命を絶った方が人として美しい
とさえ考える民族だから、
告白して恥をかくくらいなら
いっそ死んでしまった方がいいんだ、
という人の方が多いから」
自己犠牲の尊さ
他者へ迷惑をかけることは許されない
死すべき場でも一歩も引かない
そこまで極端じゃないにしても
こういう武士道精神的美学って
いまだに日本人の中に根強く生きている気がする。
カウンセリングも
今でこそだいぶ一般的になったものの
やっぱりカウンセリングに通うことに
ポジティブなイメージを持つ人は
それほど多くないし
「困ったらカウンセリングへ行こう」
という文化が日本で当たり前になる日は
まだまだ遠そうだ…。
アメリカなんか
ちょっと夫婦で揉めたら
カップルカウンセリングに通うのにね。
(離婚率も高いけど…笑)
ただ残念なのは
相変わらず日本で
カウンセリングは流行らないのに
「自己開示の大切さ」
だけが切り取られて
自分の弱いところを必死に隠しながら
SNSで自分のポジティブなところを
やたらめったら他人に晒して
自尊心を満たす人は増えている。
そして他人と自分を比べて病む人も増える。
難儀だなぁ・・・。
内部対話>外部対話
私たちは日常的に
「内部対話」といって
常に心の中で「自分自身」と会話をしている。
そして実は内部対話の割合は
他者と話す「外部対話」の割合よりも多い。
何か上手くいかないことがあったり
思い通りにいかないことがあった時
「何やってんだよ」とか
「やっぱり自分ダメだな」
みたいな内部対話が繰り広げられていると
誰かにその言葉を言われなくても
ちゃんと傷つくしダメージを受ける。
それどころから毎日毎日繰り広げられる
この「内部対話」には強烈な暗示効果もある。
「私はできない。ダメな人間」と
心の中で繰り返し続けていれば
ちゃーんと
「できないダメな人間」になっていく。
だから
自分自身のメンタルコントロールにおいては
この内部対話の「質」がとても大切。
「他人に言えないような言葉は自分にもかけてはいけない」
というのが基本。
かつて私も
自分自身に対して辛辣な言葉をかける習慣を
やめることができなかった。
自分で自分を励ますとかねぎらう
その感じが気持ち悪くて仕方なかった。
そしてその時に
無意識のうちに始めた習慣が
祈ることだった。
心が疲れたと感じると神社やお寺に足を運び
ひたすら祈った。
祈る=自分との対話
神様や仏様に話しかけるときには
欲や邪念を全て傍に置いた状態で
言葉遣いも丁寧にして
自然と礼儀正しくなる。
そして祈りながら
今自分がここにいられることに感謝し
自分だけでなく自分の周りの人たちもまた
幸せでありますようにと願う。
そして祈り終えると
内側に積もっていた心の澱がなくなって
心身ともに軽くなったような感覚になる。
神仏に話しかける
「内部対話」によって
自分の気持ちが軽くなることは
これ以上説明する必要もないとは思うけれど
自分自身との対話がうまくできない
という人こそ
「目に見えないもの」
の力を借りたらいいのではないかと思うのだ。
私は特定の宗教を深く信仰しているわけではないし
これを読んでくれている人に
信仰をすすめているわけではない。
祈る対象は
厳密には神仏でなくてもいい。
自然でもいいし
亡くなった大好きなおじいちゃんとか
ご先祖様でもいい。
祈るという行為は
磨き上げられたピカピカの鏡に
自分自身の姿を映して
その自分と対話する
みたいなことなので
その鏡となるピカピカの対象があればそれでいい。
ただし
今実際に生きている人間を対象にするのは
やめたほうがいい。
なぜならイマジネーションの中であっても
その対象は「生きている」ので
自分自身を映し出す鏡にはなりえないし
下手すると自分自身との対話ではなく
その人との対話になってしまうから。
祈ることで内部対話の質を上げて
自分自身のに語りかけることに
抵抗がなくなれば
ハワイ式のホオポノポノでも
マインドフルネスでもなんでもOK。
自分で自分のことを大切にできない
自己肯定感が低くて
何をやってもうまくいかない
という人は
まずは自分よりももっと大きな存在に対して
祈る。
祈りながら心の中で語りかける時間を
大切にすることを始めてみると
いいかもしれない。
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