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新学期と子どもの自殺について①

(この記事には自殺に関する具体的な内容を含みます)

もうすぐ新学期。

いつの頃だったか,私がかつて勤めていた学校では,新学期直前になると必ず教員や保護者向けに「子どもの自殺防止」を呼びかけ,何かあれば必ず相談してください,というメールを保護者に配信することが習慣化されるようになった。たぶん今も続いているはず。

これは学校単位での取り組みではなく,自治体を挙げてのキャンペーンみたいなもんだった。

私は長らく「教育相談主任」というポジションで校内の不登校やいじめ問題についての全体状況を把握したり,教職員全体に声をかけて意識付させるような立場にいたので,新学期開始前になると管理職から「今回もよろしく」と文科省・県から通達されたそれっぽい「新学期・児童生徒の自殺防止徹底」みたいな通知文を手渡され,職員全体に周知するという役割を負っていた。
そして,そんな上からの文書を読むたびに吐き気がする思いだった。人が,子どもが,自ら死を選ぶということの重大性も本質も全く理解せず,ただ「事前に策を打った」という既成事実によって事が起きた時のアリバイづくりをしようとしているのが透けて見えるような,こんなクソみたいな文書を作って配布せよ,と命じた人間に対しての怒りと苛立ちを抑えられなかった。

子どもは本当にある日突然命を絶つ。
「その日」は大人が予想できるような分かりやすいタイミングでは絶対にこない。

大人の場合でもよく言われることだが,自殺するにはかなりのエネルギーを要する。文字通り「生きる気力もない」という状態の人は死なないし死ねない。
一見すると,ちょっと元気そうだったり「いつも通り」に生活している人が,「え,なぜ今!?」というタイミングで起こる。

かつて教え子が命を絶った時もそうだった。
前日もいつも通りに会話をしていたし,また次の日も当たり前のように登校してくるものだと信じてきっていた。翌日その子は自宅を出て学校へ来る途中で命を絶った。
なぜその日を選んだのか。それは本人にしかわからない。
人が生きることに絶望して命を絶つ日に理由なんてあるんだろうか。
たまたま。フッと引き込まれるように。気がついたらその日だったんじゃないか,とも思う。

だから,教育の現場で自殺防止の呼びかけを期間限定キャンペーン的に行うこんな取り組みなんて意味もなければむしろ有害だとすら感じる。
1年365日いつだって「その日」になるかもしれないのだから。

そして,こんな記事を自ら書いておいて言うのもなんだけど,
とてつもない「怒り」や「恨み」のエネルギーを内包している子にとっては,周囲の大人が「9月1日は自殺が多い日だから気をつけなきゃ。あんたは大丈夫よね」みたいな不用意な発言をすることが逆に「スイッチを押してしまう」可能性もある。

誰にも理解されない苦しみや葛藤を言語化して表現する術がなかったり,無理解な大人に囲まれて生活を続けていることで,自分の中の処理しきれない負のエネルギーを最終的に自分自身に向けることでしか解決策を見出せなくなる子どもも沢山いる。自殺にまで至らずとも,自傷行為を繰り返す子も同じだ。
そういう子たちは,怒りや恨みの対象である特定の誰かや周囲の人間にとって,この日を絶対に忘れられない日にしてやろうとか,メッセージ性を持たせるために敢えて日を選んで行動した,という子もいる。
だからこういう怒りを溜め込んでいる子たちにとっては,大人が無神経に発する「自殺」というワードがかえって抑え込んでいた気持ちを刺激してしまうことすらある。

「死にたいとか,死のうと考えている人に対して,誰かが「死んじゃだめだ!」と声をかけてあげればその行動を止めることができる。だから同じようにすれば子どもの自殺も防げる」
と考えるのはすごく安易で想像力を欠いた勝手な発想だ。
そういうことを言っちゃう人は,事が起こると
「その子の死を止めるために,周りの大人が何かできることはなかったのか。」
みたいなことを平然と言う。
そして誰に責任があるのかということを追求して自分には非がない・責任がない,ということを証明しようとする。
ある日,大切な人を予想もしない形で突然に失った衝撃や到底1人では処理しきれないほどの感情を抱えながら,想像を絶する苦しみの中でもがいている当事者たちの傷を抉り,もっともっと深く傷つけることなんて気にもしない。そういうことを極めて無神経に,無自覚にやるのだ。

ある1人の人間が自ら命を絶ったことに対して,何が原因でその事象に対して誰がどんな責任を負っているのか,線引きすることなんて不可能だ。そんなの亡くなった本人にしかわからない。
逆を言えば,本人を取り巻く全ての人がその子にとっての「環境」なのだから,
周囲にいた全ての人が何かしらの形で関わっているし責任を負っている。
だから皆が傷つくし苦しむのだ。

私たちは自分の生き方が誰かの環境になっている,ということにあまりにも無自覚に生きすぎている。

本来子どもの生きようとするパワーというのは凄まじい。
子どもの側にいるだけだって,そのプラスの波動に包まれて心地よくなれるほどの存在なのだ。
そんなエネルギーに満ちた生命体である子どもが,生きることをあきらめ自ら命を終わらせる選択をする,というのは,決断までの間に本人が必死で出してきたSOSを周囲の大人が無視したり,真正面から受け止めてあげられなかった結果以外の何ものでもない。

これが死のうと考える間際まで誰にもSOSを出せなかった大人の話であれば,周囲からの
「死んじゃだめだ!思いとどまって!」という声かけが救いになることもあるかもしれない。
でも子どもは違う。
子どもに対して「自殺はいけない。何かあったら大人に相談しなさい」なんて忠告はいらない。だってそんなこと言われなくたってもうとっくに考え尽くしてきた。でも大人は誰もそれを受け止めてくれなかったじゃん。というのが子どもの本音なのだから。

続きます。

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Mariko
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