ラマナ・マハルシの「自己探究」を分析する

「真実とはなにか?」
「神とはなにか?」
「意識とはなにか?」
これらの探求は、辿り着くことがない漂泊だ。
それらは外向きの探求であるから。

そして、内に向かうのが自己探究。

まずは、外向きの探求がどのようになっているか、プロセスを見てみよう。

1. 「〇〇とはなにか?」という疑問が生じる。
2. その疑問(悩み)には、不快感が伴っている。
3(外). 不快感から逃れようと、外に答え(概念)を探す。

しかし、一つ答えを出しても、また別の疑問が生じてくる。
外に答えを求めることは、内(原因)は残ったままになる。
そのため、形を変えて繰り返し疑問は生じる。

そこで、外向きから内向きへの転換をするには、まずは2の不快感に、耐えなければいけない。

「耐えること」が、内への自己探究の第一歩。

3(内). 不快感を避けようとせずに、立ち止まる。
4. 外から内への転換として「その疑問は誰に生じたのか?」と問い直す。
5. 答えは「私」。
6. 「私は誰か?」と問う。
7. 答えは「分からない」。
※この分からないというのは、思考の停止のことでもある。

もし7で、「私は〇〇だ」と答えたならば、また4に戻る。

4. すかさず「「私は〇〇だ」と答えるのは誰か?」と問い直す。
5. 答えは「私」。
6. 再び「私は誰か?」と問う。
7. 答えは「分からない」。

なぜ7で「私は〇〇だ」と答えたときは、4に戻るのか?
その答えが、外向きのものだから。
つまり、初めに問題としていた「〇〇(この場合は、私)とはなにか?」という疑問に対して「私は〇〇だ」と、答えたことになっている。

ラマナも、私はあれだ、これだと答えを与えずに、「私は誰か?」と問いなさい、と教えている。

では、なぜ「分からない」で終わるのか?
ここでは、疑問を生じさせた無知の心(=分からなさ)に気づいていることになるからだ。
この気づきによって、智慧がもたらされる。

結局、なにが分からないかは問題ではなかったのだ。
その内容への執着、疑問や悩みへの不快感が、外に向かうことになっていた。

そこで、内には、無知そのものが問題とされる。
この分からないという感覚こそが、まさに私(心)を捉えているということになる。
それゆえに、心は微妙であって捉えがたいと言われる。

私(無知の心)が、疑問(思考)を生じさせる主体である。

さらに、そこから主体の背後の認識、つまり原因へと向かっていく。
そうすることで、私が心から解放されていく。

ここで、重要なことは心が静まる(抑制)のではなく、解放されていくこと。
つまり、内に向かうことによって、不可逆的なプロセスが進んでいく。

これは、自己を失うプロセス(内)であって、達成するプロセス(外)とは異なる。
そのため、内のプロセスというのは、外に進んだものを元に戻し(コントロールを手放し)、源(本来性)へと帰ること。

やるべきことは、ただこの「分からない」という感覚を解消しようとせずに、留まること。
それ以上、なにかを問うたり、調べたりする必要はない。

ラマナも、「私は誰か?」と一度問えば良く、何度も唱える必要はない、と教える。

分からないとき、それ以上は考えようがない。そのため、なにも考えずに心を捉え続ける。

しかし、もしなにか思考や疑問が生じたならば、再び1から問い始め、「分からない」に戻ってくる。

そして、この無知の心が、気づきによって浄化され、「分からない」が腑に落ちたとき(智慧が生じたとき)、思考(疑問)が終わる。
そのとき、純粋な心になる。

ところで、この無知の心は、心の中でも最も微妙なもの。
無知が原因となって欲が生じ、欲が原因となって怒りが生じる。
そのため、無知を克服するためには、欲と怒りを先に克服しなければいけない(粗雑なものから微細なものへ)。
そのため、この自己探究は、霊的には上級者向けと言われる。

純粋な心になると、圧倒的な救済感覚(欲と怒りの克服)を経験することがある。
そのため、この純粋な心を完成だと勘違いしやすい。

更に進んで、純粋な心がハートに溶け込むとき(私と心との自己同一化をやめたとき)、全体である意識(私-私)が現れる。
それそのもので在ることで、それを知る(無知から智慧へ)。

しかし、まだ潜在的な傾向性により様々な心が生じてくる。
さらに自己探究を繰り返すことで、傾向性も消滅し、意識に完全に留まる。

この最後の道で、大きな困難を経験することになると言われている。

最後に、究極の真実はその意識を超えたところにある。

純粋な心(知性)には思考は生じない。
意識は、さらにその原因だ。
意識すら知性を超えているのに、意識を超えた真実は説明できないということさえも超えている。

真我は、「私はあれでもない、これでもない」・・という、否定を通してしか見いだせない。
(ラマナ・マハルシ)

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