「八支則を立体的に捉える」ヨーガ・スートラ

八支則の一般的な解説を見ていると、どうも疑問に思うことがある。

例えば、ダーラーナは一点に集中することとある。それでは、眉間に集中したとしよう。
今度は、「アーサナ」のシッダーサナ(達人座)で、視線(ドリシュティ)は眉間に置くことが指示される。
そこで、この「アーサナ」と、シッダーサナで行う「ダーラーナ」はどう違うのか?

私なりの答えは、アーサナは「身体の鞘」で行い、ダーラーナは「知性の鞘」で行う。
そのためダーラーナは、知性の鞘をきちんと体感的に認識できなければ実践できない。

しかし、一般的な八支則の解説は外の行法(平面的)であるため、アーサナもダーラーナも同じようにできるとする。

八支則を立体的(重層的)に見るのが、内の行法となる。
ヨーガは外から内へプロセスとして行い、ギャーナは直接の内を重視する。
そのため、以下はギャーナ的な捉え方になるかもしれないが、詳しく解説してみたい。

まず、五つの鞘(コーシャ)を確認する。
1. 身体の鞘
2. 生気の鞘
3. 心の鞘=内部諸器官
4. 知性の鞘
5. 至福の鞘(存在・意識・至福)
ヒンドゥー教では、真我を覆い隠す五つの鞘(=個我)からの超越を目指す。

さらに、それらを三つの体に分類する。
1. 粗大身=身体の鞘+生気の鞘
2. 微細身=心の鞘+知性の鞘
3. 原因体=至福の鞘

このとき、粗大身において「身体」←「生気」は、外←内の関係となる。
同様に、微細身において「心」←「知性」が、外←内。
原因体の「至福」は外で、「真我(アートマン)」が内−内のように言える。

ギャーナでは、さらにアートマンを超えたパラートマンが意識以前の真実となる。

※なぜ真我を超えたパラがあるか?
理論的には原因体を超えたものが真我で完成となるが、そうはなっていない。なぜなら、実践的には原因体と真我は同様に扱われているからと考えられる。
というよりも、原因体と真我が同じか異なるかは確かめようがなく、混同しやすいため、別にパラートマンを置いているように思える。
仏教でも同じような事情で、涅槃と般涅槃(パリニッバーナ)がある。

いたる所で水が溢れている時、井戸は無用である。同様に、真実を知るバラモンにとって、すべてのヴェーダは無用である。 

「バガヴァット・ギーター」

この外と内とは、対象←主体の関係になる。
さらに、粗大身←微細身←原因体は、客体←主体←認識となる。
これは、部分←中間←全体とも言える。

知覚する主体は、微細身の内的な知性の鞘となる。
そのため、サンヤマが前の五つの支則に対して、内的であると言われる。

もう一度、五つの鞘で見ると、客体(身体+生気+心)←主体(知性)←認識(至福)となる。
主体+認識が、ダーラーナ+ディヤーナ+サマーディのサンヤマとなる。

さらに、より全体的に見ると、(部分←全体)部分性←全体性となる。
すると、ニルービジャ・サマーディ(全体性=内−内)に対して、サンヤマ(全体=部分性=内−外)が外的となる。
この部分と全体、全体性については、以下の記事を参照して欲しい。

以上を踏まえて、サマーディを見ていく。

サマーパティとサマーディを区別している解説があまり見当たらないが、ここでは以下のように考える。

○粗大身(ヴィタルカ領域)
(外)身体の鞘→サヴィタルカ・サマーパティ
(内)生気の鞘→ニルヴィタルカ・サマーパティ
○微細身(ヴィチャーラ領域)
(外)心の鞘→サヴィチャーラ・サマーパティ
(内)知性の鞘→ニルヴィチャーラ・サマーパティ
○原因体
(外)至福の鞘→サヴィージャ・サマーディ
○真我
(内)→ニルービジャ・サマーディ

外は対象を含むため「サ」、内は対象を含まないため「ニル」となる。
さらに、サマーパティは部分性、原因体から意識(全体性)でサマーディとなる。

アーサナでサマーパティに入れるのかと疑問に思う人もいるかもしれないが、可能なのだ。
少なくとも、プラーナヤマ(生気の鞘)で、微細身への移行はヨーガ・スートラで読み解ける。
ちなみに、サマーディはかなり強烈だが、サマーパティは特別感はあるが、案外認識はきちんとしている。
ここで一例を示している【サマーパティ「無常を見る感じ」
以下の記事は、プラーナヤーマによる粗大身から微細身へ。

ここで五つの鞘において問題となっているのは、それらの鞘との自己同一化である。
サマーパティによって、この自己同一化から離れていくが、例えば身体の鞘との自己同一化から完全に離れたときには、生気の鞘との自己同一化が始まる。
そうして進んでいくと、至福の鞘との自己同一化が離れたときには、もう他に自己同一化がないためサマーディ(真我との同一化)となる。

しかし、種のあるサマーディ(サヴィージャ・サマーディ)は潜在的に部分性(自我)を含んでいる。
この部分性は区別があるためサンプラジュニャータ。全体性には区別はなく、アサンプラジュニャータとなる。

この種(潜在的傾向性)を取り除いていくのが、サンヤマ(ダーラーナ+ディヤーナ+サマーディ)となる。
あるタイプのサマーディ(外の行法による技巧的なサマーディ)は、識別をするような認識は働かないため、そこから出てサンヤマを行わなければならない。
原因体は、粗大身と微細身を含む全体であるため、それら全体を部分毎に通常の知覚とは異なるサンヤマで、識別していく。
例えば、丹田にサンヤマして身体を知り、心臓にサンヤマして心を知るように。

以上を理論編とする。
また実践編については、別の機会にまとめたい。

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