歩こうとしなくても歩ける!瞑想編
「歩こうとしなくても歩ける」ことを確認するための瞑想を解説していきたい。
仏教の瞑想には歩行瞑想がある。
これは2つに分けられる。
1つは瞑想の姿勢として。
例えば、呼吸への気づきの瞑想をしていたとする。
そこで、その気づきを、四つの姿勢で保つのだ。四つの姿勢とは、「歩く、立つ、座る、横になる」。
どのような瞑想でも、歩いているときにも瞑想を続けること。
もう1つは正知、歩くことへの気づきの瞑想。
歩いているときに、歩いていると知ること。
ここでは、2つ目の歩行瞑想について取り上げる。
歩くことについては、以下の記事で確認した。
まず全体的に、大まかに一つの「概念」として「歩く」と知る。
さらに、歩いているときの身体の感覚にも意識を向ける。この身体感覚は、どこかに意識を置いてそこを感じることも、そのとき最もハッキリしたもの感じるのでもどちらでも良い。
・歩くと概念的に知る。
・歩いているときの身体の感覚に気づく。
この2つのバランスを取る。
これは、呼吸への気づきの瞑想(身随念)でも同じ。
瞑想が進んでいくと、より多くのことが見えるようになり、識別ができる。
全体的に「歩く」と同時に、部分的にも歩くことを見ていく。
伝統的なやり方のひとつを例として、以下のように示す。
・「右足」「左上」の2ステップ
・片足ずつ、「上がる」、「進む」、「下りる」の3ステップ
・片足ずつ、踵が「上がる」、足が「浮く」、「進む」、足が「下がる」、足が地面に「下りる」の5ステップ
※基本的には、可能な限りゆっくり歩いて行う。
※それらのステップ毎に身体の感覚も確かめてい
く。
そうして、部分的に分解し見て、全体として見ることで識別ができる。
さらに、ここから上級者向けとなる。
識別が進んでくると、意思がはっきりと感じられるようになる。
身体の動き(物質)と意思(精神)の識別ができるようになるから。
※この物質と精神の区別は当たり前のようで、それなりに高度な瞑想とされる。普通は混ざっていて、見分けることが難しいようだ。
そうして、「歩こう」、「歩きたい」などの意思が伴って、歩いていることが分かる。
そして、歩く各ステップ毎に、意思を捉えられるようになる。
人は、心(意思)の連続体である。
意思が連続して繋がっているように感じている。
しかし、よく見てみるとそれは瞬間瞬間に生滅(点滅)しているように、細かく分かれていることが分かってくる。
認識が早くなると、それまでひと続きに見えていたものが、ストップモーションのように見えるのだ。
そうすると、身体の動きも同様にストップモーションのように、コマ割りされ、それぞれに意思が伴っているのが見る。
さらに進むと、消滅のほうがはっきりしてくる。すると、連続にはすき間があることが見えてくる。
歩こうと意思を持って歩いているとき、「私が歩いている」という意図を持っている。
つまり、これは身体と自己同一化しているということ意味している。
しかし、この「身体=私」という想念(意思)は、生成消滅し、すき間がある。
つまり「身体=私」は確固としたものではないことが分かる。
このすき間に意識を合わせられると、背後にあるものが見えてくる。
このすき間には何があるのか?
それがエネルギーである。
身体は物質である。本来、物質のみでは動かない。
エネルギーがあって、運動が起こる。
そうして、すき間から意識がエネルギーに向かうことで、意識が身体から離れていく。
すると、身体からの自己同一化も離れる。
これが、身体を無我であると見ることである。
すると、「私の身体」という想念ではなく、「この身体」という智慧が生じる。
ここでの智慧がしっかり確立されると、「有身見」という煩悩が根絶され、悟りの段階へ進んでいく。
身体との自己同一化を離れた「私」はどこに行くのか?
次に、エネルギーとの自己同一化が始まる。
そして、同様にエネルギーとの自己同一化から離れたとき、今度は心との自己同一化する。
この心との自己同一化から離れていくとき、歩こうとしなくても歩いていることに気づくようになる。
なぜなら、歩こうとしている意思が自分のものではないことを知るだ。
心との自己同一化を離れるということは、顕在意識を超えることになる。
そうして、最後に「意識」との自己同一化をする。
この「意識」との自己同一化を離れたとき、人は解脱する。
※ここで言う「意識」とは、心理学的には潜在意識(無意識)のことだ。
解脱とは、無意識(「意識」)を超えること。これは、「意識以前」とも言われる。
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