「外の行法」と「内(道)の行法」

瞑想法は多くある。
それを本質的に分類すると、大きく2つに分けられる。

それは、外の行法と内の行法である。

瞑想をするときには、主体と客体の区別がある。
そこで、客体(対象)に向かうのが、外の行法。
主体に向かうのが、内の行法となる。

この区別が無くなるとき、瞑想(行)は終わる。

外の行法とは、対象(相)を使う瞑想。
つまり、観察(考察)すること。
例えば、色や光、音、呼吸、文字、像、あらゆるイメージを使ったもの。

内の行法とは、対象が無い(無相)瞑想。
これは、観照すること。
主体に向かうものだが、主体は主体を見ることができないため、無相となる。

重要なことは、もし主体を対象にしようとしたとき、それは外の行法になる。
なぜなら、そのとき「私」という概念(言葉、イメージ)を対象(相)にしているから。

内の行法のときでも、主体→対象の認識はある。
その上で、意識を主体に向けるだけとなる。

あえて言うならば、「見る」のが外だとすると、
「見ないように見る」というのが内になる。

※これはまたもっと具体的に説明してみよう。

対象がなんであるかは問題ではない。
なにを対象にしていても主体には関係がない。
その対象のまま、それを見ている主体を捉えるのだ。

このとき、対象が見えなくなるのでもない。
もしそれまでの対象が外れてしまうなら、主体を対象化してしまっていることになる。

例えば、ロウソクの炎を見る瞑想をするとき、その炎を対象にするのが外の行法だが、内の行法でも炎は目に映っているのは分かる。
それどころか、炎も含む目に映るすべてに気づいている。
しかし、それら見えるもの(対象-部分)に焦点を当てず、主体(全体)を捉える。

対象を取ることは、部分的に観察し、さらに考察(概念)すること。
主体を捉えることは、全体的に観照することで、識別が続く。

外の行法を極めると、神通力(超能力)が生じることがあるという。
そのため、社会(世間)的には、能力開発のために好まれ、瞑想法として教えられているもののほとんどは外の行法となる。

内の行法の目的は、霊的な完成(真実)である。

さらに、外の行法には知識的、技術的に向上したり、達成したりできる。そのため、教えることも容易である。
しかし、内の行法は、むしろ放棄し、退却していく。目に見えるものでなく、目に見えないものを扱っている。

もう一度、抽象的にまとめて捉えてみよう。

部分に向かうことが、外の行法。
全体に向かうことが、内の行法。
そして、全体(量)から全体性へと質的な転換(超越)を果たす。

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綱川哲郎|瞑想と対話
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