教養(リベラルアーツ)「一つ知れば、すべて知れる」

知るとき、なにをもって知ったと言えるのか?

例えば、心とはなにか?と問う。
しかし、このように考えていっても、知ることができない。
【「〇〇とはなにか?」の問いの限界】

それでは、次に心ではないものはなにか?と問う。
例えば、身体である。
そのようにして考えていっても、まだ知ることができない。

なぜなら、これらの問いは延々と続いていってしまうからだ。
どのようにでも言えるものが、どのように確定決できるのか?という問題である。

そこで、心と身体を含む全体(普遍性)とはなにか?と問う。
それが例えば、意識となる。
このようにすると、ようやく心を知ることができる。

「心とは?」「心ではないものは?」「心と心でないものの全体とは?」この三つのが必要となる。

これは例えであるが、それを本当に知るとき、一つのことを知れば他のすべてを知る。
そうでなければ、一つのことすら知っているとは言えない。

なぜなら、これらは概念であるからだ。
概念には形(境界)だけあって、実体がない。
形は一つでは生まれない、他のものがあって、境界線ができるのだ。しかし、その外にはまだなにかあるかもしれない。
そのため、全体が決まらなければ、何一つ決まらない。
【概念で「考察」すると、そのものは見えなくなる】

ここで、「では、全体はどうやって知るのか?」という疑問が生じるかもしれない。

このとき、部分と全体はどちらが先なのか?という問題がある。
心、身体といった部分を集めていって、全体を作るのか?
意識(全体)をまず決めて、部分に分割するのか?
鶏が先か、卵が先か問題だ。

これは、どちらも必要となる。
それが識別をするということである。
【識別すること「部分、全体、構造」】

この部分と全体を相互作用させて、「構造(全体性、普遍性)」を見抜いたとき、本当に知ることができる。

そして、その本当のもの(真実)は、実はすでに知っているものなのだ。
なぜならば、知るということは、本来のものであり、生じたり、消えたりするものが「無知」だからである。
真実とは自明なものなのだ。
【智慧で見る「自明なものほど見えにくい」】

それではこの「無知」とはなにか?

それが「自我」である。
この自我を見抜くことが、ソクラテスの言う「無知の知」となる。
この自我が分離を、概念を作り出す。

一つのことを知って、すべてを知れる、この一つのこととは自分のことである。
そのため、古代から「汝自身を知れ」と言われる。

しかし、自分のことを知ろうとするのではない。
この自分(自我)は、無知で隠れているのだから、それを探しても見つからない。

何を知るかは重要ではない。
なんでも良いのだ。歴史であれ、科学であれ、哲学であれ、人間の心であれ、サブカルチャーであれ。
それらの背後に隠れた普遍性(構造、縁起、パターン)を目指すことが、知の探究である。

これが、本来の「教養(リベラルアーツ)」となる。


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綱川哲郎|瞑想と対話
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