2種類の感覚「身随念と受随念の違い」
仏教の「四念処」で、「身随念」は身体の感覚などを見て、「受随念」では感受作用を見る。
この二つの違いについては、きちんと解説されることが少ないため、ここで確認していきたい。
「感覚」には、大きく2種類ある。
身体的感覚と精神的感覚である。
身体的感覚は物理的特性(色)で、精神的感覚は感受作用(受)となる。
例えば、「熱さ」という感覚はどちらだろうか?
答えは「どちらもあり得る」。
物理的特性とは、四大元素のことで、「地・水・火・風」となる。
「熱さ」とは、火の要素である。
※ちなみに、地の要素は、重さや固さ、粗さなど。水の要素では、流動、凝集性。風の要素は、振動のような推進性となる。
そして、熱さを感じているときに、必ずそれに伴って感受作用が生じている。
その感受作用は、「快・不快・中間」である。
例えば、「熱さ」+「不快」のとき、熱さに意識を合わせるとき身随念となり、不快に合わせるときは受随念となる。
それでは、受随念のとき「熱さ」は感じなくなるのか?
いや、熱さへの気づきもある。
ここで重要なことは、識別範囲の違いとなる。
身随念のときは、「五感+対象」の身体的範囲となる。
受随念のときは、「五感+対象→接触→受」のプロセス全体を識別する。
つまり、感受作用には身体が含まれている。
「大は小を兼ねる」のだ。
よく誤解されるのは、ヴィパッサナー瞑想は観察であるというものだ。
観察とは、主体が対象を見ることだ。
身随念は身体を観察し、受随念は感覚を観察すると考えると、二つの違いはきちんと説明できない。
そうすると、さらにこのような誤解が生じてしまう。身体を対象にするか、感覚を対象にするか選べると。
それはできない。
なにを捉えるかは、主体に依存している。
身随念をしているときは、どこを見ても身体しかない。
受随念をしていなければ、感受作用は捉えられないのだ。
つまり、主体が変わるとき、どの随念になるかが自動的に決まる。
しかし、その主体を自由に切り替えるのかと言えば、そのようなことはしないし、その必要がない。
なぜなら、先の説明でもあったが「大は小を兼ねる」からだ。
そして、それができるときになれば、自然に先に進んでいく。
その意味では、きちんとこのシステムを知っていなくても、実践することはできる。
実際に、特に初心者のうちは、このような説明をして理解することよりも、瞑想実践することを勧められるくらいだ。
しかし、「法随念」では、これらをきちんと理解する必要があるため、ここに解説をすることにした。
どのような要因で、身随念から受随念に進むことができるのか?
それが主体が変わることであるが、もっと正確に言えば、主体の制限を外すことで認識範囲が広がって、受随念に進む。
ところで、身随念の目的はなんだろうか?
それは、身体の実相を見破ることだ。
その最も重要なものが、「無我」である。
つまり、身随念をしているとき、瞑想者は「私(主体)=身体」という固定観念を持っている。
これが、主体を身体に制限していることを意味する。
身体との自己同一化が離れたとき、身随念が終わる。
そして、次には感受作用との自己同一化が始まり、自動的に受随念となる。
このようにして理解すると、次の「心随念」も理解できるだろう。
四念処を進めていくことは、十二縁起の識別範囲を広げていくことでもある。
そして、「法随念」においては、その全体を識別する。
○参考
これらを背景を理解して実践するために、「観照」と「識別」を理解しておこう。
さらに、身随念の具体的なプロセスを、「呼吸」と「歩行」でまとめてみた。
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