ブッダからの課題「"一切は無我(非我)である"を証明せよ」
ゴータマ・ブッダは教えてあげるとは言わない。
「自分で確かめなさい」と言う。
そこで、仏教の真理に諸法無我という教えがある。
諸法とは、すべての行(形成されたもの、現象)と涅槃のこと。
それら一切が「自己のものでもないし、自己でもないし、本当の自己でもない」=無我(非我)とする。
それでは、なにがあるのか?この問いは仏教においては退けられる。
ゴータマは、自らの教えすら疑うことを説き、自分で確かめなさいと教える。
ブッダの出した課題は以下のようなものだ。
「"一切は無我(非我)である"を証明せよ」
無いもの、非ずのものをどのように証明すればよいだろうか?
それは、背理法によって。
背理法とは、「命題Aを証明するのに、命題Aが成り立たないと仮定すると矛盾が導かれること示すことで、命題Aが成り立つと証明する方法」のことです。
そこで、「自己がある」という仮説を立てて、検証していく。
そのとき一切のものを検証しなければならない。
そこで、まず一切とはなにか?
そもそも仏教において、認識がすべてであるという立場を取る。
つまり、世界は自己の外側ではなく、内にあるとする。
その上で、一切を自己の範囲で定める。
そうして、世間が自己と呼ぶものを様々なパターンで分類する。
いくつか以下に列挙する。
「2つの性質」
名(精神性)、色(物質性)
「3つの身体」
肉体、心霊、意識
「5つの要素(五蘊)」
色、受、想、行、識
「6つの感覚器官(六処)」
眼、耳、鼻、舌、身、意
これらを検証(識別)していく方法で、最も重要視されるのが、「四念処」となる。
四念処とは、八正道の中の正念で、身、受、心、法の4つをあるがままに随念する行法。
識別する際に、これらの構成を確かめておく必要がある。
まず、これらを五蘊を対応させると、以下のようになる。
身(色)、受(受+想)、心(行)、法(識)
これで、四念処の4つで一切をカバーしていることになる。
そして、それらの関係をまとめると、以下となる。
法(認識)→心(主体)→受(中間)→身(客体)
そうして、これを四重否定として論理的に展開することができる。
身体は自己であるか?自己ではない。
→物質
受は自己であるか?自己ではない。
→物質と精神の中間
心は自己であるか?自己ではない。
→精神
法(意識)は自己であるか?自己ではない。
→物質と精神の両方(すべて)
しかし、理論と実際は異なる。
理論的にはこれで、「一切は自己ではない」となるが、「そのように了解しているのは誰か?」が問題になる。
そこで、ブッダは筏の例えを説いた。
釈尊は次のように語った。
ーーー修行者たちよ、、絶対的安楽を得るために、こだわりの心から開放されるために、”筏の譬え”(いかだのたとえ)を説こう。
修行者たちよ。例えば、道行く旅人が、大河に出あったとする。
こちらの岸は危険であり、向こうの岸は安全である。しかし船も橋もない。
そこで旅人は考えた。「大きな河だ。しかし、こちらの岸は危険で向こうの岸は安全だから渡るしかない。でも、船も橋もない。とするなら、葦や木や枝を集めて筏を作り、手足で漕いで渡るしかない」
そこで、彼の人は、葦や木や枝を集めて筏を作り、手足で漕いで渡った。
次に、この人は考えた。「この筏は、大変役に立った。この筏のお陰で、大河を渡ることが出来た。さあ、次に私はこの筏を担いで道を歩いて行こう」
さあ、この人は、適切な行動をとっているか? 否か?
ーーー弟子たちは「否」と言った。釈尊は続けた。
では、どうするのが適当か考えてみよう。
「この筏は,大変役に立った。この筏のお陰で大河を渡ることが出来た。さあ、私はこの筏を河中か岸辺に置いて、道を歩いていこう」
このように行う人こそ、適切な行いをした人である。
修行者たちよ、絶対的な安楽を得るために、こだわりの心から開放されるために、私は以上のように、”筏の譬え”を説いた。どうか修行者たちよ、この譬えの意味をよく理解せよ。
教えをすら捨て去るべき時がある。なおさら、誤った教えは捨て去らねばならない。
(マッジマ・ニカーヤ)
ブッダからの課題である「"一切は無我(非我)である"を証明せよ」をクリアしたあとには、
その証明した「一切は無我である」を捨て去らなければいけない。
「私は無我を理解した」というこだわり、見解を乗り越えるために。
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