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自立とは、自己中心性からの脱却である

『嫌われる勇気』の続編である『幸せになる勇気』を読み終えた。2016年の発刊当時は「二番煎じかなぁ。前作だけで十分よー」とか思っていたが、今さらながら読んでみると目から鱗の連続だった。

尊敬、信頼、自立、愛についての洞察が深い。フロムとアドラーの思想が密接に関係していることも明らかになった一冊であった。


自立とは、自己中心性からの脱却である

『幸せになる勇気』の中でのイチオシのパワーワードは「自立とは、自己中心性からの脱却である」の一文。これには衝撃が走った。

「自立」という言葉に対して「自分の稼ぎで生きていけること」「自活すること」といったイメージを抱く人は多いのではないだろうか。

しかし、自分ひとりでご飯が食べていけることはどちらかというと「独立」という言葉に近い気がする。「自立」にはもう少し深い意味合いがありそうだ。

アドラーが提唱した「個人心理学(individual phychology)」では、「個人」を分割できない全体として捉え、社会との相互作用の中にある存在だとしている。

※個人心理学で言うところの個人="individual" はラテン語の "individuum=in(否定)+dividuum(分割する)" から由来している

アドラーは「個人は社会的な文脈においてのみ、個人となるのであって、決して自分ひとりの力だけで『自立』がなされるのではない」と語る。自立とは、独りよがりに叫ぶものでは決してなく、他者の存在に常に敬意を払うことで成立する。


映画「マチネの終わりに」を観て感じたこと

先日、映画「マチネの終わりに」を鑑賞した。

映画の主題は「未来は常に過去を変えている」というメッセージ。すなわち「未来は過去の出来事に規定されているのではなく、これから起こる未来によって過去の経験の捉え方は如何様にでも変わりうる」ということ。

まぁたしかにそうだと思いつつも、アドラーにしてみれば「過去や未来などは現実には存在せず、我々はただ、今ここを生きるしかない」わけだ。

今ここで、どのような目的を持ってその生を全うするか。戻ることの叶わない過去のトラウマや、見えもしない不確定な未来を憂うるのではなく、唯一変えることのできる「今ここ」を全力で生き切る覚悟を持った者だけが、自立への第一歩を踏み出すことができる。

そして、今ここを生きる選択は必然、他者との関わりなしには実現されない。社会的な文脈を排除した状態での自立はありえないのだ。

アドラーは「承認欲求」「自己肯定感」「過去」「トラウマ」などの概念を否定するが、それらはすべて「自己に執着することで視点が内寄りになり、共同体感覚(社会/他者への関心)に心を配る余裕がなくなる」ことを危惧しているのだろう。現実から目を背けずに向き合う勇気を持つことで、他者と共生する道を選ぶ。それが、最終的には自立した生き方につながる。


「自立」の探求の先に――

自分が所属している会社、サイボウズでは「自立」を重んじている。自分はこれまで自立という言葉を「自身の選択によって起こる結果に責任を持って決断できること」と解釈していたが、『幸せになる勇気』を読んでその理解に奥行きが増した。

自己に対する視点だけでは自立は成し得ず、自分を生かしている他者の存在や、自己と他者を含めた社会全体へのリスペクトがあって初めて、自立は達成される。それが「自己中心性からの脱却」の意味するところである。

東京大学准教授・熊谷晋一郎先生の「自立は、依存先を増やすこと」という言葉にも通ずるものを感じる。

実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態なのだろうと思います。だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。

「依存先」という表現は消極的に聞こえるかもしれないがむしろ逆で、自分という存在を生かしている他者や社会に対する心を持って、初めて感じられる境地ではないだろうか。


アドラーの思想をもっと深く学んでみたいと感じた。自己啓発みたいなレベル感ではなくひとつの哲学として、人生を通じて実践しながら探求してみたい。


頂戴したサポートは、私からのサポートを通じてまた別のだれかへと巡っていきます。