カムカムエヴリバディ×NVC 寓話”善女のパン”はなんの意味?
カムカム終わってなぜか予想していたようなロスにはならず、ドラマを楽しんだ幸せだけを噛み締めておりましたが、はやくも、カムカムの総集編が放送ですって!
しかもちょっと編集を工夫していて楽しめるってほんとですか? もう、ちむどんどんするやっさー!! (……あれ?……)
劇中劇”善女のパン”を覚えていますか?
さて、みなさん。
風間俊介さん演じた弁護士の片桐さん。彼はいったいどうしていたのか、その後が描かれなかった、ネタが回収されなかったじゃないかなどと話題になりましたね。
そのネタ回収ではありませんが、風間さんといえば、劇中劇として凝ったつくりで挿入された”善女のパン”を覚えていますか?
読書好きのるいが竹村クリーニングのカウンターで空き時間に読んでいたオー・ヘンリー短編集の中の1編です。実は原題は”Witches’ Loaves”=魔女のパンなのですが、カムカムの中ではなぜか”善女のパン”と題されていました。
原作の翻訳を青空文庫で読むことができます。
”誰かのために” ”良かれと思って”の落とし穴
るい役の深津絵里さんがマーサ役、そしてわかりにくかったかもしれませんが、客の男役を風間俊介さんが演じていました。
このお話、いったいなぜ挿入されていたのでしょう? カムカムの本編のどこと結びついてくるのでしょうか?
ドラマの中に明示的な種明かしはなかったかと思いますが、私なりに思いつくことを挙げてみたいと思います。
ひとつは、先の記事「カムカム×NVC〜『NVCの鉄則:言葉を聞いてはいけない』の真実」の中でちょっと触れましたが、”誰かのために”という思い込みが落とし穴になることがある、ということ。
私が思うに、安子は、”るいのために” ”よかれと思って” 身を引いてはいけなかった……! のです。
(もちろん、この事件があるからこそ、私たちは極上の3世代の物語を楽しめたわけですが。)
私たちはどうしたわけか、”自分のために”ではなく、”誰かのために”行うことであれば、それは思いやりの発露なんだから”いいこと”であると思い込もうとしたり、それが正しい、あるいはしょうがない、これしか方法はないんだと納得しようとしたりします。
安子はまさにその状態だったでしょう。(参照「安子のニーズを推測する座談会その1」)
しかし!
そこに”よかれと思って”という名前の落とし穴があるのです。
どんな?
暴力につながる落とし穴です。
相手への暴力だけではありません。
自分に対する暴力にもつながる落とし穴です。
”あの人はこう”等の決めつけはコミュニケーションからの逃亡
私たちは、相手のこと、あるいは物事を「こうかな?」と好奇心をもって想像することができます。しかしながらこのとき、注意深くありたいのです。
それが本当に好奇心からの自由な想像の一部なのか、それとも思い込み、レッテル貼り、自分が納得するための勝手な理由付けなのかどうか。
思い込み、レッテル貼りはそれ自体が暴力ではありませんが、暴力を容易にします。思い込み、レッテルを通して相手を見ることは、常に変化を続ける人間である相手の、人間性を受け取る努力を放棄することです。
暴力に向かわないために、私たちにできることは、自分が想像したとおりなのかどうかを実直に確かめること。自分の想像が違っている可能性にも開かれた柔軟な心をもつこと。それがコミュニケーションです。
NVC(非暴力コミュニケーション)を実践するのであれば、一方的に、一面的にものごとを捉えるのではなく、コミュニケーションを、直接の相互のやりとりを諦めないこと、し続けることを大切にしたい。
他者に確認しながら、物事を多面的にとらえ、立体的に浮かび上がらせる。これが、コミュニケーションを通して私たちができることです。もちろん、このためには、ある程度の心の余裕があることは必須です。
やりとりの過程で、「相手がこのように言ったからこうに決まっている」と”言葉のせい”、”相手のせい”にしようとしていたら、自分が今、かなり余裕のない状態に陥っているサインです。(ちなみに、その心の余裕をつくる方法を、NVCでは「自己共感」として伝えています。)
ぐるりと話を戻すと、安子のあのときの状態は……?
あまりにも自分に余裕がなかったので、るいの”I hate you”という言葉を、字義どおりに聞いてしまった。そこから”るいのためには自分が身を引くしかない”と思い込んだ。厳しい言い方で言えば、コミュニケーションから逃げた、のです。もちろん、安子自身もそれはわかっていて、長らく自責の念に苛まれていました。
では、安子の他にも”誰かのために”、”よかれと思って”コミュニケーションを拒否して、独善的に行動した(しようとした)人はいなかったでしょうか?
るいがそうだと思います。
岡山を出たのは「自分は捨てられた子。ここに居ない方が雉眞家も助かるだろう」と決めつけたのかもしれない。
額の傷を見た片桐さんの表情を見て「この人に嫌われた」と思い込んだのかもしれない。
「額に傷がある私は人に好かれる資格なんかない」と思い込んでいてジョーのプロポーズも拒もうとした。
あるいは私たち視聴者も、かもしれません。
「ジョーは夫、父として”家族のために”働くべき!」という思い込みでイライラしながら見ていた人もいたかも?
(まあ、この場合はコミュニケーションから逃げたとは言えませんが、他の可能性に開くことは拒否していたかもしれません。)
もちろん、誰も”悪く”はありません。だから制作者は劇中劇のタイトルを”魔女のパン”ではなく、”善女のパン”に変えたのかな?
一時的に決めつけをし、無理にでも納得させて落ち着くことは、心を守るために役立ちます。しかし、あくまでも「一時的に」です。このとき、自分は自分を落ち着けるための手段として「決めつけ」をやったのだ、と理解しておきましょう。そして、いずれコミュニケーションの場に戻る力、いわばレジリエンスが自分にあることを、あきらめないでいたいものです。
”自分のニーズために”行動することが、結局は相手のニーズをも大切にすることになる
考え続けたいのは「”誰かのために”を、自分のために行動しない言い訳にしているとき」、それは、本当に”誰かのため”になるのか、ということ。
私たちが「善女のパン」のミス・マーサだとしたら、どんなことが言えたでしょう? 自分のために、自分のニーズから行動するとしたら?
彼とほんのちょっと親しくなりたいという思い(=ニーズ)にミス・マーサが素直に気づいていたら、「彼が本当に画家なのか」「いつも古い固いパンを買うのはなぜなのか」をステキな方法で確かめることができたかもしれません。
彼が大切にしていることを、決めつけず素直に推測したり、彼の必要を具体的なリクエスト(NVCリクエスト)で聞いてみることもできました。
これこそがコミュニケーション。
私たちは、コミュニケーションのとば口を、想像力と創造力をもって工夫することができます。
その手法の一つとして、マーシャル・B・ローゼンバーグは、観察⇒感情⇒ニーズ⇒リクエスト、すなわちNVCを実践することを勧めています。
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