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希望

子供たちはいつも希望を背負わされ
すさぶ丘を登っていく

ある種の言い訳と
信託された涙と
鼻と口を塞いだごみの山と
しらじらと明けるネットの中で
子供たちは明日を探す
空っぽの手で

大人たちはさもあたりまえと
なにもせず週末を過ごす
もう飲み込まれたものが
失ってしまったものが
失い続けているものすらも
遠い過去のように
意味も無かったかのように

なにも手渡すものはないのか
背負わせるだけで?




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例えば、震災直後に生まれた子供たちは希望の子供たちと呼ばれ新聞でもそう書かれました。彼らはただそれだけで生まれながらに何かの象徴とされます。そして子供たちはそのように振舞います。強く明るく。
グレることもできないね。

希望とは託すものですが、その託す側はただ託すだけでいいのでしょうか。
これも例えばですが、僕の住むあたりはある大臣さんの選挙区です。地元の名士。
もうそれだけで希望への論議は薄れているようです。希望の為ではなくしがらみで。もしくは色々な不満を抱えながらも、選挙にいってもお大尽様がおるから無駄やなと。投票率は低いようです。いらないギスギスもしたくないしね。

話は飛びますが自らの磔台を背負いゴルゴダの丘を登る男は後の信者にとっては希望でしかない。現代でもそうなのでしょう、みな彼を希望をもって祈り讃える。
それを一身に受ける彼自身は希望をもって茨の冠をかぶったのでしょうか。まぁそれは僕にはわかりません。想像してみただけ。それを詩に入れました。

でも僕はなにごともギブ アンド テイク、もしくはそうじゃなきゃただただ惜しみなく与える、が理想です。”託す前に与えよ”がわが神(なのか?)の教え。
子供たちの希望じゃなくて、希望の子供たち、背負わされた希望ならばそれに見合うものを託す側がまずは与えるべきだと思うのです。ネグレクトなんてありえない。
まぁゴルゴダの彼は一心に祈られ、語られるだけギブ アンド テイクされているのかもしれないけれど。

さて、週末は選挙です。
選挙とは好き嫌いを決めるでも、未来を決定することでもないと思います。
考える機会ですよね。希望が実際なんなのか、何を託すのか、それを託すために何ができるか。選ぶより前にそれを熟慮することこそ、未来を語りたい、希望を語りたいなら義務なのだと思います。

いつの世も子供たちは希望です。
しかし託すならばその前にすべきことは多い。
選挙じゃなくても希望に対し熟慮すらせぬものが希望を託すというのは、とても気持ちの悪いことだなぁと思ったんです。
子供たちに託すのじゃなく、子供たちの希望通りに、がほんとうだと思いますがね。


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