つくるということ・つくる構造〜なぜつくる行為は忌避されるのか
ゴッホの映画、『永遠の門 ゴッホの見た未来』やっと見ました。
ゴッホの精神状態に合わせて色も輪郭もブレたり消えるので身体的にリアルな感じになってる気がしました。二次障害っていう感じの全体感が辛いです。
見終わってpc開けたらちょうど為末氏の記事が、、、、、
https://note.com/daitamesue/n/nde4170621292...
ゴッホとテオの話が上がって、「好きなことをすることってどういうことなのか」というお話を為末さんは書いてます。 社会構造の話なので「なぜ社会は好きなことをやる人を支援するのか」という着眼点なんですが、社会で生きる人がどうして好きなことをやってリスクをとっている人たちに反感を抱くのか、とリスクをとる人々が日々暮らす環境についてさらっと言葉にしています。
「好きなことをする人は反感を抱かれている」 これは寂しい話です。
これ別に「好きなことをする人」と言わなくてもいいです。 つまりは「真面目に生きず欲望を抑制していない人」と認識されるから反感を抱かれていると言えばいいでしょうか。 そりゃ職人や手を使って生きる人たちの身分が低いままなのわかるわ。
「永遠の門」の中でもゴッホは絵を描いていることについて村人から理解されず距離を取られます。 距離をとられるどころか汚いもの、キチガイ扱いをされて死にます。そればっかり描かれてるといってもいいかもです、、、、、(個人的には美しさを求めて楽しく描いている彼の姿見たかったなぁ)
世の中の人と違うから虐められる、と考えがちですが、結局自分の世界を強く持っている人が狂人扱いをされるわけで、狂人とされる彼らは好きなものを選び、好きと言うことができる人なのでしょう。
しかしものつくるということはどの材を選ぶか、どんな表現方法を選ぶのか、誰に向けるのか、どんなゴールを望むのか、全ての局面において「自分の意思で良いと思うものを選ぶ」ことが前提になってるんです。
よりよくものをつくるためには、ひとつひとつが緻密に計算されて選択されてゆくのですが、その行為を差して「真面目に生きず欲望を抑制していない」と社会で生きる人には感じられるのですね。作る構造自体が違和感の元になりやすいのではないかと思いました。
また、為末氏は「好きなことをする人は他人を羨まない」から、好きなことをする人が増えれば足を引っ張る人が社会に減ると言ってましたwなんて前向きw
わたしは、好きなことを選べる人が増えると共感と討論レベルが上がると思うのでもう少し穏やかになるかなっては思いますね。足を引っ張らないでくれるかどうかはわかんないw
どういうことかというと、
先日とある特撮ヒーローものが好きなママさんが、こころない他のママさんの「子供と一緒に特撮見てる親ってイケメン見てるだけでヤバイ」と言う言葉に涙するツイートがありました。この場合、「その人の選択」「その人の好み」には着目せず、理解もせずにその選択をしている人を否定しているのでいじめになっちゃうんですよ。
その人がどういう理由でどんなところを評価し選んだのかに関われば討論として成り立ってたらここまで酷い印象にはならなかった、、、、
「永遠の門」では、ちゃんと牧師がゴッホの芸術観(選択)を否定するところも取り上げているのですが同時に彼自身も聖書の解釈について問題を突きつけられているので、双方がやりあった形が個人的に良い感じがしました。(もちろん日本語翻訳で見ているので、細かく否定されている部分がどこだったのか正確にわかったとはいえないのですが;;)
とはいえ選択・好み・ものの見方を話し合うことはいじめにはならんのです。むしろ、ふたりでやりあうと世界の階層を一段階あげることができるのです。
まとめると、
ものつくりや好きなことを好きと言える人は、それを欲望を我慢しない人と判断する人から見ると社会的ではないと思われがち。
人を否定しないで人のものの見方や選択で話し合うと世界変わる。存在否定ではない会話は生産的でいいと思うよ。
みたいなかんじ。
美術の鑑賞やものづくりの授業って、こんなところまで切り崩してもいいのかもしれないと、思いました。
ゲームの中では、自分の選択について誰にも何も言われないからそりゃ居心地いいよなぁと、ゲームが大好きな小・中学生のどハマり姿を思い浮かべてしまいます。