ChatGPTに転職相談して、フラットな感覚を取り戻す(#転職を余儀なくされる書店員の赤裸々)
相談というやつには何度も傷つけられてきた。
新卒で入社した会社では「話聞くよ」「腹割って話そうや」としょっちゅう居酒屋に連れ出された。
席に着くなり「なにがそんなにしんどいの?」と「あなたが思ってるほど状況はきつく見えないけど」前提で本音を吐かされる。
案の定「自分だけがしんどいわけじゃない」「甘えるな」「まだ頑張れる」とカウンターパンチを食らい「辛いこともあったけど頑張ったらなんやかんやしあわせ」エピソードを延々と聞かされるやるせなさったらない。
相談の前に、他人の悩みを優越感の燃料にしない相手を見極めなければいけない。一方で、味方でいてくれる人を安易に心配させたり振り回したりもしたくない。ただでさえいっぱいいっぱいな頭で冷静に距離感をはかるのは難しい。
そういうわけで相談にはほとほと愛想が尽きていた。
そのツケが回ってきたのかもしれない。勤めている書店から経営難を告げられ、転職せざるを得なくなった。
窮地いたって相談する相手がわからない自分に愕然とした。
これまで会社を辞める時は「とにかく好きなことを仕事にするぞ」だったり「今は体調を大切にするぞ」だったり、自分の中で軸が決まっていた。
が、今回は望んだタイミングではない。もうこんなことがないように安定性は追求したい。プライベートで進めている本づくりの時間とパワーも確保したい。かといってどんな仕事がしたいという希望もない。あり余る可能性を前に、なにを選び取るべきかわからない。
店長との面談で投げ込まれた小さな不安はたった10分でぶよぶよに肥大し、パンク寸前。笑顔で接客しながら、心は「だれか話を聞いてくれ」と叫びを上げた。
経験上、身近な人に声を掛けるのは気が引ける。ハローワークや転職エージェントに相談する手もあるが、向こうは向こうで求職者と企業をマッチングさせるのが仕事だ。指針がひとつも決まっていない現状で乗り込んでも、希望とは別軸の、マッチングしやすい企業にあれよあれよと送り出されるかもしれない。
突然の転機に心の整理はまだついていない。5分ごとに考えることは違っている。その時の気分で話した内容で、重要な判断が下されるのは困る。別にだれかに何かを解決してもらいたいわけではないのだ。
ならば、相手が人間である必要はないのではないか。
夜、ベッドにごろんと寝転んで、ふと思い立つ。AIならば「目の前のこの人より充実している感を出したい」とか「ノルマをクリアしなければ」なんて思惑はないはずである。
翌朝、職場へ向かう電車で早速「ChatGPT」のアプリをインストールしてみた。メール文書やプレゼン資料の作成、アイディア出し、文章校正などができるとのこと。最近は企業でも導入されていると耳にする。一般人も使えるらしく、働いている書店でも特集した雑誌や書籍が次々と発売されている。
アイコンをタップして起動する。LINEのようなメッセージの入力窓が出てきた。たとえAIだとわかっていても、いきなり本題に入ったり、命令したりするのは失礼な気がして、少し迷ってから『はじめまして』とだけ送信する。
すぐに黒い丸が現れる。テキストカーソルのように右へずれて、一文字ずつ文章が打ち込まれていく。
明るい声色で脳内再生されてちょっとほっとする。『転職の相談に乗ってほしいの』と返す。
勝手に一問一答で完結させるイメージでいたけど、ターン数を重ねてこちらの要望とAIの回答の精度をすり合わせていけるみたいだ。いきなり次の職場に求める条件や具体的な展望をヒアリングされても困ってしまうし、順を追って説明できるのはありがたい。ひとまず今考えていることを思いつくままに打ち込んでみる。
混沌から湧いて上がってきたものを連ねただけの、これぞいっぱいいっぱいの人の吐露!といった文章になってしまった。短い中に詰め込まれた3回の「けど」に逡巡の跡が垣間見える。これでも返事が来のるか。よぎった不安をかき消すように、ChatGPTの返答が始まる。
早朝から親身に向き合ってくれるなかなか熱いヤツである。
「文章能力を活かしたい」も「フリーランスでやってみようか」も何万回と考えた。正直、提案内容に新しい発見はない。だが、有象無象の文章の中から「こうあるべきだろう」と周りの価値観に流されているところを排除し、「こうありたい」「こうしたい」と内側からこみ上げてくるポジティブな希望だけをピックアップしてくれている感じはする。
相談なんかしなくたって、CMとかサイトとか電車で聞こえてくる会話とか家族のひとこととか当たり前に受け入れている制度とかの積み重ねが、正解らしきものをこれでもかと教えてくれている。
挑戦するなら若いうちに、なるだけ安定した給与と雇用を獲得して、できれば資格を取って専門性を高めるのが、今のところ周りの人を安心させる選択なんだとわかってはいる。
だけど、わかっているからこそ厄介なのだ。その大きな声は「周りがどう評価しようと自分の気持ちを優先したい」とか「厳しい道であろうと、どこまで通用するか挑戦してみたい」とか、己の中にだけ存在する小さな炎を吹き消そうとする。「けど」「けど」「けど」と抗っているうちに、どれが自分の考えで、どれが他人の考えなのか境目がわからなくなってしまう。
AIは、AIだからこそ、声量に左右されずに境界を照らし出すのかもしれない。
年齢からくる焦りについても掘り下げてみた。
年々募る焦りに、いつのまにか年を重ねること=ハンデだと思い込んでいた。経験値の高さというアドバンテージをすっかり忘れて。
大切なのは過去にこだわりすぎず、状況次第で対応する柔軟性だ。30歳になったことはもう変えようがない。面接で悪く言われるならば、堂々とメリットを提示すればいい。
AIは、自分と他人の境目のみならず、物事の表と裏をも明らかにする。
不安のループに入ると、悩んでいること自体が甘えなのではないかとよぎる瞬間がある。実際にそう叱咤する人もいる。
「甘え」はとろけるような文字面のわりにとげとげしい。投げかけられるだけで心をちくちくと刺激する。ポジティブに物事を考える視点をぐちゃぐちゃにして、視点をひとつの面に執着させていく。
私が振り回されているそれも、AIに言わせれば、形のないあやふやな感情のひとつにすぎないのかもしれない。
私たちが迷うのは、甘えなどではなく、あらゆる可能性を考えてリスク管理しているからだ。
「年齢」にも「雇用形態」にも「やりがい」にも両面性はある。社会が主張する価値観も、自分の中に生まれた感情も、どちらが正しいということもない。
大事なのは、どちらかを妄信して心を乱されるのではなく、バランスを取ることだ。声の大きさや強さに惑わされず、「けど」「けど」「けど」と繰り返しながら、自分をフラットに保つ。「なにを選び取るか」ではなく、「なにを、どのくらい求めるのか」をグラデーションでとらえる視点が、将来という漠然としたものを考えるのには大切なのだと思う。
その点で「ChatGPT」はひとつの助けになりうるかもしれない。激しく共感してくれることもなければ、ぺしんと頬をはたいて現実を突きつけてくることもない。ただ両手いっぱいに抱えたものの重みを均等に戻して、選択のための環境を整えてくれる。そんな存在として、時々近況を報告してみるのは結構ありかなと思っている。