Rainbow⑧
恵み①
「岩崎卓爾がね、……」突然に始まる母の講義。我が家にとっては日常の光景だが、他所の家庭の母はどうなのだろう? と、真里は稽古帰りの車中で、ハンドルを握る母を見て思った。何でものめり込む性格の母は、栄養士や食材ソムリエの資格。短歌や俳句にも、のめり込んでいた。石垣島の人・もの・こと(歴史や年中行事)には、移住したときから興味があり、あれこれ人に聞いたり本で調べたりしている。例の「思い立ったが吉日!」は、年齢関係なく健在らしい。
「ところで、岩崎卓爾って、誰?」真里は興味なさそうに母の千夏に訊いた。訊いたのには訳がある。母は、話を無視をすれば拗ねるし、興味を示せば延々と話し続ける。――四十を越えた微妙な年頃の母なのだ。その扱いには気をつけなければならない。父の史と真里は、それをよく心得ていた。
千夏は、よくぞ訊いてくれたとばかりにさらに熱を帯びて話を始めた。
明治三十年以降の石垣島の名だたる人物の元を辿れば、必ず岩崎卓爾に行き当たる。と千夏はいう。
八重山の音楽を発展させた音楽家の宮良長包。『八重山民謡誌』で八重山の歴史や行事の意味などをまとめた民俗学者の喜舎場永珣。日本の民俗学を牽引した柳田國男や折口信夫も、岩崎卓爾と接点を持つ。彼の出身は、今の宮城県仙台市。本業は、気象観測技術士で、主に台風の研究をしていた。しかし、それだけに飽き足らず、八重山の生物や民俗、歴史を研究していた。という。
まるで、母のようだ。と真里は思った。近所のおじい、おばあから方言を習い始めたと思ったら、農家から間借りした畑で島野菜の育て方を教わった。そして次は島料理、白保村の年中行事。次から次へと、数珠つなぎに知識も人も繋がっていく。
母が家の半分を定食屋にすると言ったとき、近所に住む人たちから遠くの人たちまで、家に来て改築作業を手伝った。真里はその当時小学六年生ながらに、母の人たらしぶりを、これは一つの才能だと認めざるを得なかった。島の人から見ればよそ者のはずの母が、こんなにも島の人たちから慕われている。これを才能と呼ばずして何と呼ぶ。同時に、真里は、母のその才能に憧れを抱いた瞬間だった。ウィングキッズリーダーズで、みんなから慕われている自分を想像して、……いつかは、私も。――と、憧れた。
真里は、運転席の母の横顔を見た。すると、母がちらりと真里を見て驚いた声で言った。
「――どうして泣いてるの?」
真里は、顔に手を当て確かめた。すうっと頬を伝う雫。
「あれ⁈ 私、なんで泣いてるんだろう」自分でも分からない衝動に、真里は困惑した。