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三題噺 心臓・星・時間

波の音が鼓膜を揺らす。
視界の隅で、ちかりちかりと光るのは入り江に立っている灯台の光だろうか。
灯台の光と、雲の切れ間から時々気まぐれに顔を出す三日月。
星は見えない。
目を凝らすと真っ暗な海が見える。
いや、見えない。暗すぎるのだ。
視界はどこまでも不明瞭で、どれだけ目を凝らしたところで海なんて見えない。何もないから、波の音が聞こえるから、潮の臭いがするから、海だと思い込んでいて、見えていると錯覚しているだけだ。

もしも闇が質量を持ったとしたら、それは夜の海によく似ている気がする。
飲み込まれたら最後。
深く深く沈んで体の輪郭が闇に滲んでいく。
僕と闇の境界が溶かされて、そうして僕は自分が誰だったか、自分が何だったかさえ、わからなくなる。
馬鹿馬鹿しい空想でしかない。
それも悪くないとさえどこかで思ってしまう僕が確かにここにいる。
僕は自分の胸元あたりを見下ろした。そこには僕の両手がある。
揃えてお椀のようにしている僕の両手には、生温い拳大の物体が収まっている。お椀の中を覗きこむように背を曲げて顔を近づけると、鉄の匂いが鼻に纏わりつく。明るいところで見れば、僕の両手は表も裏も真っ赤に染まっているのだろう。

もしかしたら、もうとっくに乾いて汚い茶色に変色して、ところどころ乾いた絵具のように剥離し始めているのかもしれない。あの時からどれだけの時間が経ったのかは定かではないからわからない。

それにーーーもう、どうでもいい。

とくり、とくり、とくり、とくり、とくり。
規則正しく脈打つ「それ」を少しだけ両手の中で揺らす。
表面に浮く糸や紐のようなでっぱりが手のひらと擦れた。
指先に、チューブの口のような突起が触れる。
とくり、とくり、とくり、とくり。
不意に視界が明るくなった。
雲の群れから月が出たのだ。
蒼白い月明かりがタイミングよく僕の両手に落ちる。
それは濃い紅色とも桃色ともつかない色をした臓物だ。
とくりとくりとくりとくり。
少しだけ拍動が速まった気がした。
気のせいかも知れない。
喉元に酸っぱい液体が込み上げて、僕は無理矢理にそれを飲み下した。胸の奥が酸で灼ける。
遠くでサイレンが聞こえる。

誰を追っているのだろうか。僕か。僕だろうか。僕だったらいい。
僕は波の音がする真っ暗闇に向かって足を踏み出した。
ざぶ、と音がして確かな質量が僕の足を押し返す。
ワンテンポ遅れてじわりと冷えた水が足を包む。
一歩入ってしまったらあとは惰性のようなものだった。
僕は重い足をすすめる。
体温が暗闇の温度に染まっていく。感覚が鈍くなる。

月が雲に隠れ、灰色の切れ目から星が瞬いた。

冷たい光だ。包丁の切っ先を思い出す。あの子の胸を抉る直前に、瞬いたのは星だったのだ。そうか。そうだったのか。

感覚がすっかりなくなった足を動かし続け、気が付くと胸のところまで水に浸かっていた。肺が押されて息苦しい気がする。僕は、そのまま腰を下ろすようにゆっくりと体を倒した。冷たい水が髪に滲んで頭皮を冷やす。くぐもり濁った音に聴覚が覆われる。遠くではまだサイレンの音が聞こえている気がする。

揺れる視界の中で、大きな月がぽかりと浮いていた。

「同じタイミングに死んだらさ、また巡りあえそうな気がしない?」

彼女の声が木霊する。

彼女は果たして死ねたのだろうか。













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