小さく廻る子育てと大きく廻る子育てが国という世界になる
vol.102【ワタシノ子育てノセカイ】
子育ては愛育て。子どもたちは愛そのものだから。
愛を育む環境さえあれば、子どもたちは無限の種を、とめどなく芽吹かせてゆく。咲かす花は未来で、熟した実は過去となり、新たな種は今として、世界を希望で包みこむ。
愛さえ育てば、子が育ち、世界が育ち、子が生まれ、愛の種が芽吹くんだ。
◇
ところで私には「実子誘拐」で6年以上離れて暮らす、10代のふたりの息子がいる。
◇
2024年10月25日金曜日、次男ジロウのオープンスクール。午前中の授業がすべて解放されていたので、毎度の如く、1時間目から4時間目までフル参加する。
3時間目は「命の学習」という第二次性徴についての授業だった。子どもたちは興味津々で素直に授業を受け取り差し出す一方で、心なしか先生が緊張しているようにも見える。二次性徴にまつわる言葉を自然に口にする子や、気恥ずかしそうにする子や、関心のないそぶりの子がいて、家庭における性への価値観が垣間見える時間でもあった。
授業の冒頭でアイスブレイクが終わると、本題への入りとして「思春期」という単語がでる。先生が言葉を発するやいなや、ジロウは首を左にひねり、教室の後ろで立っている私と目を合わせてはにかんだ。
高1の長男タロウが10歳くらいから、母子間にて思春期という言葉がしょっちゅう行き交っていて、私たちは2024年の今もしばしば思春期を使っているんだ。
心が乱れるには原因がある。ごく自然に親を奪われ自分を否定される、この上ない不条理な日常生活に思春期が重なると、子どもの世界はもっと閉ざされてしまうだろう。
不快の原因を知ってるだけで、言葉にできるだけで、乱れた自分を抱きしめられる。ほんとは私が抱きしめたいけど、包んであげる暮らしはない。タロジロが自らを包めるツールを、探し贈るばかりの7年なんだ。
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単独親権制度の私たちの社会は、子どもの親を奪う営みを息するように肯定する。思春期じゃなくても、実子誘拐問題の当事者じゃなくても、心のバランスを崩せる社会構造となっているんだ。
生き物としてのルーツを、人間としてのアイデンティーを、社会が平然と奪うから。
振り向きはにかむジロウから、失った子育ての中で重ねた親子の時間をふと想う。授業中なのに、泣きそうだ。
教室でひときわ大きな体のジロウは、もう12歳なのか、まだ12歳なのか。まぁとにかく、あきらめずに、できることを、できるときに、できるだけ、繋げてきたから、今がある。我が子の思春期はこれまでの子育てが、めくるめく戻ってきて、過去の自分がただいまと帰る、自分を見つめる時間なんだ。
学校という教育の場がなければ、味わえない感謝をかみしめながら、単独親権制度の教育でなければ、親子引き離しなどありえない現実に惑う。
社会とはやっぱり不条理で、矛盾だらけの世界だな。
◇
オープンスクールの翌日は、タロウのクライミング大会だった↓↓
大会後のジロウとの下校密会で、いつものように私がジロウに挨拶する。
「お母ちゃんは今日もジロウに会えて幸せやわ」。
するとこの日のジロウは「そう?ジロウは幸せとかじゃないと思う」とすまし顔。どうしてそう思うのか尋ねと、ジロウは太陽みたいな顔して答える。
「だって親子やねんで。そら会えるやろ」
くり返しくり返しタロジロに伝え続けた「親子やから会えるんやで」。私はもう、我が子と会う時間が、特別な日になったのかもしれないな。今、確かにある幸せを、1滴もこぼさずに呑み込もうとする私は、何に渇望しているんだろうか。
失った7年の親子時間は、タロウが消えたわけでも、ジロウが消えたわけでも、私が消えたわけでもない。なのにどうしてか、私より大きくなったタロジロに、幼い我が子の影法師がユラユラする。
◇
ジロウとお茶をしながら、クライミング大会の前日にタロウからきたLINEの話となる。私の観戦に対して注意喚起された「明日声出したらあかんで」についてだ。
どうして声援をとばしたらだめなのか、ジロウの見解を私が尋ねると「恥ずかしいからやろ」と返ってきたから「親子やのに、恥ずかしいんか!?」と思春期ムシしてつっこむ私に、ジロウが苦笑いで呼応する。
「親子やから恥ずかしいの!」
どうぞ、どうか、子どもの親が父と母であり、親と子が親子であると理解できる人々で溢れる日が、私たちの国の近い未来に、戻りめぐってきますように。
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