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月の中のうさぎ
今日は中秋の名月。
ここのところ天気も良いので、きれいな月が見える。あの月の中に本当にうさぎがいるのか……? 子供の頃に誰でも一度は考えたことがあるだろう。
月の中のうさぎは『慈悲の象徴』なんだとか。
おなかを空かせた老人のために、食べ物を探そうとしたサルとキツネとうさぎ。木の実や魚を持って来たサルとキツネに対して、何も持って来られなかったうさぎは自ら火の中に飛び込んだという…… 老人のために自分の命を捧げたうさぎは『慈悲の象徴』として月で蘇った。この話を知った時、私は一瞬慈悲の意味が分からなくなった。
慈悲の心があったのは、老人(帝釈天)だよね……?
『慈悲』とは、仏や菩薩が人々を哀れみ、苦しみを除き、楽しみを与えること。身を捧げたうさぎを哀れんで、月の中で蘇らそうとした帝釈天の行動が慈悲なのは当然として、うさぎの行動は慈悲になるのだろうのか? うさぎは食物連鎖の観点から見れば、食べられるのは当然という人もいるかもしれない。自分より上の存在を助けるために、命を投げ出すことは当たり前にされるのかな?
このうさぎが後のお釈迦様だとすると、尊いのは魂であって、それが入っている肉体に意味はないのだろうか? たいていの場合、うさぎはうさぎとして扱われて、その中にまさかお釈迦様の魂が入っているとは思わないでしょう。老人のために自らの命を投げ出すぐらいの魂だったから、その後はお釈迦様の魂にまで進化したのか、それとも本来尊い魂がその時はうさぎに入っていたのか?
こういう話はエンドレスだ。答えなんか出るはずがない。むしろ無理して答えを出す必要がないと思っている。はっきりとした答えが出ない問題を、とにかく繰り返し考えることに意味があるから。
愛とか慈悲とか思いやりなどという大きくて深い問題に、人間が簡単に答えを出していいわけがない。分からなくてもいい。分からないから考える。そうしているうちに何となく前よりちょっと進んでいる。そんな繰り返しでいつの間にか、答えに近づいていく。いつもじゃなくても、時々でも、忘れていないから少しずつ染み込んでいく。そのうち私にも今より慈悲の心が分かるようになっていればいい。そんなことを考えながら月を見ている。
月は潜在意識に繋がっている。月にうさぎが住んでいてくれることは、私達の心のどこかに慈悲があるという象徴なのかもしれない。
また次の満月にもうさぎのことを考えよう。