【24】恋を知らない小鳥~幼馴染の愛に包まれて~
第24話 事件の顛末
詩陽は光を感じ、ゆっくりと目を開いた。
特徴のない白い天井に、クリーム色のカーテンが見え、静かな中に時折、機械音と小さな話し声が聞こえてくる。
詩陽は白いシーツのかけられた掛布団を跳ねのけて、勢いよく飛び起き、周囲を見回してみた。足元の方で何人かの看護師と医師が行き来しており、遠くには見慣れない機械が見える。
「あ、あの!」
大きな部屋にいることに気付き、声を出すことを躊躇ったものの、控えめな声で近くを通った看護師を呼び止めた。
「あ、よかった。気付かれたんですね。今、担当の医師を呼んできますね」
「は、はい」
自分の担当よりも、伶弥の担当医師を呼んでもらいたいが、咄嗟に言葉が出てこなかった。
現在の伶弥がどうなっているのか、知りたいのに、知るのは怖い。意識を失う前、確かにナイフを持つ甲斐と詩陽の間に、伶弥の体があった。
夢だと思いたいが、そこまで記憶は曖昧になっていない。ドクドクと脈打つ心臓を落ち着かせようと、何度も深呼吸を繰り返した。
だが、不安が解消されるまでは、落ち着かせるのは無理のようだ。ずっと心臓が震えている。
詩陽は一度鋭く息を吐き、自分の体を見下ろした。両腕を見回し、腹部を触ってみたが、どこからも出血はしていないようだ。
両手に血が滲んでいるが、恐らくドアを何度も叩いていた時にできた擦り傷だ。痛みはするが、大したことはない。
後頭部に痛みがあるが、これは倒れた時にぶつけたせいだから、詩陽に自覚のない怪我はないと言ってもいいだろう。
「伶弥が、いない」
いつもの伶弥なら、詩陽が気を失っていれば付き添っているはずだ。だが、今、伶弥の姿はない。その意味を想像すると、良くないことばかりが浮かぶ。詩陽は布団をぎゅっと握り、医師が来るのを待った。
「小鳥さん」
程なくして、現れた医師は若い女医だった。男性じゃなかったことで、肩の力が抜ける。
「あ、あの、私と一緒に男性がいたと思うんですが」
「ああ」
そう言って、女医がチラッと後ろを見た。
「もしかして、伶弥に何かあったんですか⁉」
「あちらのベッドで寝ていらっしゃるので、行ってあげてください。小鳥さんは頭を打たれたようですが、異常はありませんでした。もし気分が悪くなるようなら、すぐに仰ってください」
余裕のない詩陽は上の空で返事をし、医師の言葉が終わると同時に、ベッドから飛び降りた。
視界の端で、医師と看護師の驚いた表情を見た気がするが、今の詩陽の頭には伶弥しか存在おらず、誰になんて思われようがどうでもよかった。
詩陽は走りたい気持ちを必死に抑えつつ、医師に教えられた場所に行き、静かにカーテンを開いた。そこに眠っている伶弥は顔色が悪く、閉じている口元には力が無いように見える。見たこともない姿が思考を悪い方へと誘う。
「やだ、伶弥、死なないで!」
詩陽はベッドに突撃せんばかりの勢いで近づくと、ベッドに突っ伏した。ゆさゆさと揺すりたくなったが、それで何かあってはいけないと、ギリギリのところで理性が働く。
意識がなくなる程の怪我だったのだろうか。詩陽は恐る恐る顔を上げ、上から覗き込んでみた。前髪が目にかかっていて、暗く見え、長い睫毛に縁どられた目はもう開きそうもない。
「ねえ、やだよ。私を一人にしないで。伶弥がいない毎日なんて、考えられないよ」
詩陽は布団の中から伶弥の手を探し出し、そっと握った。そこに温もりを感じ、安堵する。詩陽は伶弥の手を自分の額に当てて、祈った。
すると、その手がぎゅっと握り返され、クスッと小さな笑い声が聞こえた。伏せていた顔を上げたのは、脊髄反射によるものだった。
そうして目に入ったのは穏やかな笑みを浮かべ、目を細めている伶弥だった。
「バカね」
「……伶弥?」
「なあに?」
まだ顔色の悪い伶弥が首を傾げて、微笑む。
「生きてる?」
「生きてるわよ。当分、死ぬ予定もないわ」
詩陽の目からぽたぽたと大きな雫が零れ落ちた。伶弥は起き上がり、目元をそっと拭ってくれる。優しくて、慎重な手つきはこれまでと何も変わった様子はない。
「本当?」
「ええ。詩陽を一人になんてしないから、そんなに泣かないで」
伶弥は眉尻を下げて、少し悲しそうな顔を見せた。詩陽が泣いていることを悲しんでいるのだと気付き、詩陽はゴシゴシと目元を擦る。
「あ、こら。腫れちゃうから、擦らないで」
伶弥は詩陽の手首を掴んで動きを止めると、そのまま手を包み、きゅっと握り締めてきた。するりと指が絡められ、誂えたように二人の手が重なる。
「詩陽は大丈夫?」
「うん、伶弥は?」
「私は脇腹を少し切っただけで、大したことないわ。ちょっと安静にしているように言われただけで、それも大袈裟なだけだから」
「大したことあるじゃない! だから顔色も悪いんだよ!」
「しーっ。本当よ。縫うほどの傷じゃないんだから。顔色の悪さは、まあ、気にしないで」
小さな声で「もともと色白だし」と言われ、詩陽は眉間に皺を寄せた。それだけではない気がするが、確かに刃物で怪我をして、大きな病院に運ばれているという先入観もあったかもしれない。
伶弥の苦笑を疑い深く見ていた詩陽だったが、嘘をついているようには見えないことで、素直に安心することにした。
「あ、伶弥の言葉が戻ってる」
甲斐の家にいた時は、しっかり男言葉だったはずだ。それも、わりと強めの言葉も聞いた気がする。
「あ、あれは」
伶弥が気まずそうな顔で視線を逸らし、頬を掻く。
「もしかして、私が怖がると思ってる?」
詩陽の言葉に、伶弥はウッと言葉を詰まらせた。そんな様子を見て、詩陽は大きな溜息を零す。こうさせたのは、他でもない詩陽だ。心配させて、気を遣わせて、無理をさせる。
「それもあるけど、詩陽と話す時は、こっちにすっかり慣れちゃって」
そう言う伶弥の目に嘘は見られない。だが、すべてでもないはずだ。
「もう無理しなくてもいいよ」
「ええ、分かったわ」
目元をほんのり赤くした伶弥は、とろりと蕩けるような笑みを浮かべる。でも、結局言葉はオネエのままだった。
それから、詩陽はその後の顛末を聞いた。
伶弥の方が早く着いてしまったが、詩陽が気を失って、すぐに警察が到着したそうだ。
バタフライナイフで切りかかってきた時、伶弥は詩陽を庇いつつ、自分も避けていたお蔭で、かすり傷で済んだらしい。運が良かったと言ったが、本当にその通りなのだろう。
伶弥は明言しなかったが、あの時の伶弥は自分のことまで考えていなかったように思う。詩陽だけを助けようとしていた。だから、運が悪ければ、ナイフが伶弥に深く刺さっていたかもしれない。
詩陽は話を聞きながら、血の気が引いていくのがわかった。寝ている伶弥を見た時よりも、鮮明に伶弥の死をイメージできてしまった。
失うことの恐ろしさを知り、詩陽は気持ちの種類に拘っていたことがどうでもよくなった。大事なのは、伶弥はかけがえのない唯一の存在であるということだ。
そして、甲斐は駆けつけた警官に取り押さえられ、現行犯逮捕された。詳しいことはこれから捜査されるが、部屋の様子から見ても、詩陽にストーカーしていたのは甲斐で間違いないとのことだ。
甲斐が逮捕されたこと、ストーカー事件が解決したこと、どちらに対しても安堵した。
それでも、これまで感じてきた恐怖や不安が、すぐに消えてくれるわけではない。すっかり染みついたそれらの感情が詩陽の中から無くなるには、もう少し時間が必要だ。
ただ、新たな恐怖や不安が増えることはないということで、精神的な負担はかなり軽減した。
警察からの事情聴取は後日行われることになり、ようやく二人が帰宅できたのは日を跨いだ頃だった。静まり返る夜道は少し怖さを感じたが、伶弥と一緒に歩けば大したことはなかった。
「ただいま」
詩陽は玄関に足を踏み入れ、前にいる伶弥に向かって、一文字一文字を噛み締めるように言った。
「おかえり」
その言葉に、伶弥の優しい声色が返事をしてくれる。そんなささやかなやりとりに、詩陽の胸がぎゅっと締め付けられた。
当たり前のことが当たり前ではなくなることがあるのだ。それを知ってしまった今なら、どんなに小さなことでも大切にできると思う。
詩陽は伶弥が両手を広げていることに気付き、ゆっくりその腕の中に入った。ほんのり頬が熱くなり、心臓からは心地良い高鳴りを感じる。
「怖かったでしょう?」
心配そうな伶弥の声に、詩陽はこくりと頷き、硬い胸に顔を摺り寄せる。
「でも、伶弥が来てくれたから、もう怖くない」
「私のことが怖くなったりは」
「してないよ。伶弥を怖いと思うなんて、一生ないから!」
それだけは胸を張って言える。すると、上から小さな笑い声が降ってきて、抱き締める力が強くなった。
「ありがとう」
伶弥の囁くような声に気付き、詩陽は顔を上げて覗き込む。てっきり笑っていると思っていた。いつものように優しく微笑んでいるのだろう、と。
だが、詩陽はその顔を見た瞬間、目元が熱くなるのを感じた。
伶弥は泣きそうな顔で、唇を噛み締めていたのだ。いつ、どんな時でも、余裕のある笑顔しか見せてこなかった伶弥が。
小さな頃を思い浮かべても、伶弥が泣いた記憶はない。泣きそうになっている表情すら見たことがなかった。
そんな伶弥の目から、遂に一滴《ひとしずく》零れ落ちた。
「っ、ごめん」
伶弥は慌てて顔を逸らそうとしたが、詩陽の両手が顔を覆う方が速かった。冷たくなっている詩陽の手に伶弥の温もりが伝わってくる。
「どうして謝るの? 悪い意味の涙じゃないんでしょ?」
「悪い意味じゃないけど……」
詩陽は伶弥の顔を引き寄せ、頬にキスをする。伶弥の切れ長の目が丸くなり、息を飲んだのがわかった。
「伶弥。いつもありがとう。昔から今まで、私の一番近くで支えてくれて、笑顔で安心させてくれて、どんな私も受け止めてくれて。本当に、本当にありがとう。私の知らないところで、伶弥に辛い思いをさせたこともあると思う。きっと傷付けたこともあるよね。それでもずっと笑顔でいてくれたんだよね」
茫然としている伶弥の頬をムニムニと摘む。かっこいいのに、可愛い幼馴染。この人ほど優しくて、強くて、芯のある人を詩陽は知らない。
「詩陽の癒しになりたかったから」
「うん、充分、癒しになってる」
「安心できる存在になりたかった」
「とっくになってるよ」
伶弥の親指が詩陽の目元に触れ、軽く滑る。そこで初めて自分も泣いていることに気付き、思わず苦笑した。伶弥はあの一滴で止まったのに、詩陽の方がぽろぽろと涙を零していたのだ。
「詩陽、ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」
そうして、二人はクスクスと笑う。冷えた玄関に温かな音が流れ、固く凝《こご》っていた空気がゆっくり動き出した。
雀の囀りが現へと誘い、優しい陽の光が瞼を軽くしてくれる。
事件翌日の朝は、とても穏やかに訪れた。詩陽は心地よい温もりに擦りより、ぎゅっと抱き着いた。その瞬間、何とも言えない声が聞こえた気がして、緩慢に瞳を開く。
「んん、おはよ」
詩陽の掠れた声に、伶弥の体がピクリと跳ねる。詩陽は内心で首を傾げ、固くて温かい抱き枕から顔を上げた。
「お、おはよう」
「どうして、真っ赤。え、熱?」
伶弥の顔が真っ赤になっていることに驚き、詩陽は体を起こそうとした。
だが、長い腕が巻き付き、あっという間に引き寄せられてしまった。再び抱き締められる体勢になったが、そこでようやく自分から伶弥に抱き着いていたことに気付いた。
「あ、これは、ちがって、ちがわないけど、そうじゃなくて」
抱き着いているつもりはこれっぽっちもなかった。甘えるつもりもなかった。
思わず否定的な言葉が出たが、伶弥の体が僅かに強張った気がして、更に否定を重ねる。
羞恥と困惑が綯い交ぜになった頭では、どうするのが正解なのか判断できるはずもない。
そんな状態だったせいで、こめかみに当てられた温もりが何であるか、すぐにはわからなかった。遅れて理解して、今度は詩陽の顔が真っ赤に染まっていく。
「もう、可愛すぎて、むり」
耳元で囁かれ、熱い吐息に背筋が震える。言い終えると同時に、伶弥は小ぶりな耳にかぷりと嚙みついた。
詩陽は声にならない悲鳴を上げ、両手で伶弥の胸を押すが、細身であっても程よく引き締まった体は動じることなく、反対に強く抱き締められてしまった。
もがいて脱出を図ると、すんなりと腕の力が緩んだ。その隙をついて抜け出そうとしたが、両頬を覆われ、齧り付くようなキスに襲われる。
どちらのものかわからなくなるほど、舌が絡みつき、時折唇を吸われる。その度に艶やかな水音が爽やかな寝室の空気の色を変えていく。
唇の感覚が無くなりそうになった頃、詩陽の唇が軽く食まれ、激しいキスに終わりが訪れた。
「食べてしまおうか」
低い声が不穏な言葉を紡ぐ。その瞬間、腰に熱が集まった気がした。
「美味しくない……!」
「絶対に美味い。いや、俺が詩陽を食べ頃にしていくんだよ」
どうしたどうした。どこにスイッチがあった。詩陽は心の中で絶叫したが、はくはくと息が漏れるだけで、言葉にならない。
「ね、まって」
「そう言われて、俺が待つと思う?」
普段の優しい伶弥は妙なスイッチが入ると、途端、雄を前面に押し出してくる。上から見下ろす目の奥に焔が揺れ、その視線だけで灼けてしまいそうだ。舌なめずりをした伶弥から目を逸らそうとして、両頬を挟まれて自由を奪われた。
「詩陽を感じたい。ここに帰ってきたんだって」
詩陽は内心で舌打ちをした。強引かと思うと、こうして懇願するような目で見つめてくる。
まるで、詩陽を感じないと死んでしまうかのような切望。そんなこと妄想に過ぎないとわかっていても、詩陽が拒否したら、伶弥は死んでしまう気がして無碍にできない。
いや、これこそ下手な言い訳だとわかっている。本当は恥ずかしいだけで、詩陽も伶弥を切実に欲しているのだ。
「ちゃんと、ここにいるよ」
中途半端な返答だ。だが、今の詩陽には、これが精一杯だった。それでも、伶弥には届いたらしい。ぱっと明るい笑顔を見せ、すぐに妖しい表情へと変わる。やはり失敗したかもしれない。
「覚悟しろよ」
「あっ、でも待って! 伶弥、怪我」
「まったく問題ない。こんなの唾つけとけば治る」
そんなわけないだろう!
そう叫びたいのに、言葉が伶弥の咥内へと飲み込まれた。頬を挟まれ、逃げ場がない。伶弥の情欲をそのまま注ぎ込まれ、詩陽は呼吸を忘れて、必死に応える。
それからのことは、あまり覚えていない。気付けば、窓の外が白んでいた気がするが、意識があるのはそこまでだった。
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