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アートって一体なんだろう?
アートって一体なんだろう?
私は今までアートを軽視していました。確かに美しいとされている絵、素晴らしいとされている絵は美術の教科書に掲載されていましたが、それらのアートに対して特段何も思うことなく、ただ美術史として暗記していただけでした。
さて、そんな私ですが、一度だけ、アートってすげえなと思ったことがあります。それは岡本太郎さんの絵を見た時でした。決して美しくはないのだけど(すみません)、衝撃を受けるようなまさに爆発のような感覚でした。
またそのような衝撃をアートで感じたいと思い、末永幸歩さんの「13歳からのアート思考」という本を読みました。この本は20世紀のアートを時系列的にみていくことによってアートというものがどういう変遷を辿ったのか、そしてアートとはなんなのかについて平易な文章で書かれています。
そして自分だけの答えを見つけることのヒントが散りばめられています。
では、ここからは私がこの本から得た自分だけの答えを述べていきます。
アートとは何か
かつて、美しくリアルであることがアートの目指したものでした。
しかし、写真の登場によって、その目標はなくなってしまいます。
アートにしかできないものは何かということが20世紀以降のアーティスト各々によって考えられ、表現されてきました。
アートとは何か。私が定義するなら「アートとは、他人になんらかの感情を抱かせる表現」です。
ずいぶん広い表現になってしまいました。
まず、アートに含まれるものを例示します。絵画、音楽、彫刻、建築、文章、デザイン、、、なんでもありそうですね。
そしてそれはそんな高尚なものではなくても、たとえば私のこの文章もアートと言えるのではないでしょうか。
では、逆にアートではないものはなんでしょうか。私が定義したものには他人という言葉が含まれます。他人とは自分以外の誰かです。つまり、世界に開かれていなければいけません。あ、別に美術館に展示される必要はありません。
私の文章も書いたところで、それを誰にも見せなかったらそれはアートではありません。私はnoteというサイトで文章を書いているので本当に世界に発表していますが、友人に「ちょっとみてよこの文」と言って見せるだけでもアートになるのです。
そしてなんらかの感情を抱かせるものと記述しましたが、これは他人に見せた時点で自動的にクリアされます。たとえば、私が「あ」これだけのnoteを投稿したとしても、きっとこれをみた他人は「なんやこれ」と思うでしょう。それでいいのです。
幼子が母に絵を見せていう。「みてみて、くまさん書いたよ」「なんだこの絵?ぐちゃぐちゃじゃないか」と母が思う。これも立派なアートなのです。
アートの鑑賞
さて、話は変わってアートの鑑賞についてです。アートに触れる機会がそんなにない私のような人間にとって一番身近なアートの鑑賞は読書感想文でしょう。
小学生の夏休みを悩ませるアレです。小学生が本を読んでなんらかの感情を抱き、それを文章にし、他人に伝える。なかなか高度なことをしています。これでは小学生が嫌がるのも無理もないでしょう。鑑賞という点に重きを置くなら、文だけでなく他の表現方法があってもいい気がします。
読書鑑賞絵、読書鑑賞音楽、読書鑑賞ダンス、、なんでもいける気がしますね。
これだったら小学生も少しは気楽に宿題に取り組めそうではないでしょうか。
もっとも、私は文章での表現に落ち着いてしまいそうですが。
しかし、鑑賞はやっぱりむずかしい。
作品側のこういう背景があって、こういう点で優れているんだ。ということに気を取られて鑑賞する側としてはわーすげー。で終わってしまうのが多いです。
作品から私はこう思うなどの「私」をアートに持ち込むのがなかなか気が引けるものなのです。
その点、連歌というものをご存知だろうか。リレー方式で和歌を5.7.5で読み、それに返答するかたちで次の7.7を読む。そしてそれを繰り返す。というものですが、前の人が読んだアートを私はこう思うなあと考え、発展させて次を読み、また次の人が、、というものが即興で行われているのだ。アートを鑑賞し、そこから得たインスピレーションから新しいアートを作るというアクティブなアート鑑賞およびアート創作だと思う。
一人一人違う考えを持つ理由
一人一人違う考えを持つ理由。ここにアートが存在する価値があると私は思う。
赤ちゃんの頃を思い浮かべてください。好きなものは大体みんな一緒です。お母さん、おしゃぶり、ミルク。泣けば大体のことは叶うと思っていますね。概ね全ての赤ちゃんがが当てはまるでしょう。
では、あなたは今、自転車が好きですか?勉強が好きですか?ヒーローになりたいなあと思っていますか?
これはただの私のプロフィールですが、当てはまる人はあまりいないでしょう。
どうしてこういった考え方の違いが大人になるにつれて出てくるのでしょうか。
たとえば、同じゴッホのひまわりを見たとしましょう。
植物のひまわりを見たことがある人が見たら、実物と比べてあーだなこうだなと思うでしょう。
また、コナンの映画(業火の向日葵)を見たことがある人が見たら、映画のシーンを思い出したりしてあーだなこうだなと思うでしょう。
他のゴッホの絵を観たことがあると、、ゴッホの背景を知っていると、、ひまわりを描こうとしたことがあると、、はじめて「ひまわり」というものを教えられたら、、
いろんな背景を持った人が鑑賞するわけですから、いろんな考えが生まれます。さらに横の説明を読んだり、人の解釈を聞いたりするわけです。そこからまた、いろんな考えが生まれるでしょう。
そして、ゴッホのひまわりを見たことがあるという新しい背景を持つわけです。
このようにして、アートから得たものが、個々でいいとこどりをして自分というものが作り上がっていくのではないでしょうか。ゴッホのひまわりを見たことを忘れてしまう人がいても構わないと思います。全部を自分のものになんてしていたらそれはそれでディープラーニングをしているAIのようなものですから、いいとこ取りをするのが味噌です。
そのようにして出来上がったモザイク状になったような自分に新しいアートからまた刺激を受け、それも取り入れ、自分自身も変化していきます。確固たる自分というものは存在せず、日々進化しているようです。
ここで言いたいのは自分なりの答えとは、決して自分1人で得た知見ではないということです。自分らしさとか独自性とかそういったことで悩む人がいるでしょうが、そんなものある日突然ぽっと湧いて出るものではないです。
様々な人が作ったアートを経験し、大切にしたいものなどを選び取って自分というものを磨いていくのです。
アートを実践する
では、まとめです。
絵も音楽も文章も何もできない人はアートができないと思いますか?
私はできると思います。
はじめの段落で、私はアートとは他人になんらかの感情を抱かせる表現だと記述しました。それはつまり、自分自身も存在しているだけで必ず他人に評価されるアートに近いものではないでしょうか。
かつてアンデルセンは言いました。
“ My life is a lovely story, happy and full of incident. “
Hans Christian Andersen
自分の人生もアートなのです。つまり、一人一人がアートでありアーティストなのです。
何をして、何を得て、何を考えて、何を実行するのか、そして、何を世界に向けて発信するのか。
これが私だと表現する、自分だけの人生があるのです。