ルバートとアーティキュレーション

〈870字〉

「シューベルトのソナタは、とくにニ長調のソナタは、そのまますんなりと演奏したのでは芸術にならない。シューマンが指摘したように、あまりに牧歌的に長すぎるし、技術的にも単純すぎる。そんなものを素直に弾いたら、味も素っ気もないただの骨董品になってしまう。だからピアニストたちはそれぞれに工夫を凝らす。仕掛けをする。たとえば、ほら、こんなふうにアーティキュレーションを強調する。ルバートをかける。速弾きをする。メリハリをつける。そうしないことには間が持たないんだ。(略)」

村上春樹『海辺のカフカ』

アーティキュレーション。ルバート。どちらも私が中学生のときに知った言葉だ。おそらく学校の授業なんかでも別に習わないし、音楽を演奏する習慣を日常に形成したことが1度もない人の大半は、多分意味が分からない単語ではないかと思う。

それを実感すると、危うさのようなものを感じる。「あの経験がなければ本当に意味が分からなかっただろうな」という間一髪さと、「この単語の意味が分からないことによる情報量の欠落は大きすぎるだろうな」という同情ようなもの。

とすると、逆の現象も自分の中に起きているはずだ。けれどそういう「よく分からない」の経験が、案外私の中にはない。ないというか、気づいていない。

私は不真面目な読書家だから「意味の分からない単語は必ず調べる」という習慣はほとんどない。知らないアーティストの知らない曲が登場すれば、それらは全て「ようがく」「くらしっく」と読み替える。全く詳しくもない車種やそのパーツが登場すれば、それらは全て「きかい」と読み替える。

そういう経験は別に少なくない。きっとアーティキュレーションやルバートで同じ思考過程を辿る人もたくさんいるだろう。けれど知ってしまっている分、これらの単語が「そうほう」と一括りに読み替えてしまうことの乱暴さを、本当に信じられなくなる。

知らないことに対しては無頓着になれるが、1度知ってしまえば、それがない生活を全く想像できなくなる。あるいは想像して必要以上に恐ろしくなったりする。人間ってそうなのかもしれない。

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