メソッドを追いつつ、パーパスを持つ
『治療方法を知っているのと、治療できることは、大きく違うこと。』
複数の先生からその話をしていただき、共に共通するのは、経験値を積むことを自分でどう捉え、そこにどう向かうか考えろ。
そんなニュアンスがあります。
悠々と急げが必要な場面のよう。
先生方の言葉を受け、メソッドの部分をまずしっかり準備する必要があると思った。鍼灸をする上で、症状に対して出来ることをまず、持っておく。
それは未来の相手が施術を受け続けたいと思える為の、足がかり。
受け続けたいと思うとは、何かが改善されたり、治ったり、楽になった時のことを言うのだろう。
では、私にとっての『治る』はどの状態なのか。
メソッドを学ぶ上では、検査し、比較できる状態にして、『治った』のか否か比較できないと、利点を話すのは難しいだろう。
私にとっての『治る』。今の時点で思えることは、
『受け手の、行動の角度がすこしだけ変わる』ことなのかなと。
最近、体の使い方を新たな場で学んでいます。そこで思うことは、体の使い方を5mmとか一見小さく見える程度でも変えると、余計な力を使わずに体を支えたり、動かしたりできると言うこと。
同じく、たとえば、その人がその日、何か行動をする予定があったとき。
A : 少しだけ暗い B : 少しだけ上向き
そんな捉え方、体の軽さが違ったら、行動は同じでも結果は異なると思う。
その小さな角度が積み重なっていったら、大きくもなる。
その為に焦らず、一つ一つの手技を押さえていくのが、今の私には必要。
前、以下の記事を書きました。
私が目指す方向についてを考える上で、患者に対する時の関わり合い方についてを書いています。
今はただただ、概念的なものだけでなく、実用的だと実感した方法論を持ちたい。目指すべき姿が、少しずつ、解像度が上がってきている気がします。
探すときに、つい、多量に抱え込んでしまうこともあるから、視野を広く、他者の言葉を聞く機会を得つつ、進めたいと思います。
こういうときに、『焦っている』と思って、嫌だなあ。と思っていたけれど。よくよく見ると、『焦』って『焦がれる』と使うこともあるから。
焦っているのが悪いんじゃなくて、視野が狭くなったり、一人でどうにかしようと空回りするのが良くないだけなんだな、と思ったりした。